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大蔵卿局|時代を生きた女たち#115

元の名は小袖といったらしい。息子の誕生後に母乳の出がよく、茶々の乳母を務めた。その後は、2度にわたる落城から落ち延びつつ、両親を失った茶々を育て上げた。
茶々は長じると、豊臣秀吉の側室として豊臣秀頼を産んだ。秀吉亡き後、小袖は徳川家康の策略に対抗し、息子とともに懸命に豊臣家を盛り立てたが、力及ばず……。

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大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)●生年不詳~1615年
淀殿こと茶々の誕生から壮絶な死まで、寄り添い続けた戦国の乳母

大蔵卿局といっても、よほどの歴史通でも知る人は少ない。肖像画もない。豊臣秀吉の側室だった淀殿こと、茶々の乳母だ。大蔵卿局は晩年の名であり、一説に元の名は小袖だったという。少しややこしいが、茶々の生まれる前から話を始めよう。

2度の落城から落ち延びる

織田信長の妹に、戦国一の美女と評判のお市の方がいた。信長は琵琶湖北東岸を治める浅井長政と同盟を結び、その絆として、お市を長政に嫁がせた。政略結婚ながらも夫婦仲はよく、浅井家の城である小谷城で茶々が誕生。

大名の正妻は、ひとりでも多くの子を生むことを求められたが、授乳中は次の子が授からないと信じられた。そのため正妻は断乳し、代わりに乳母が母乳を与えるのが常だった。その子が乳離れした後も、長く乳母は養育係を務める。そのために子供への影響が大きく、人柄や教養まで問われた。

浅井家でも相応の乳母を探し、それに応じたのが小袖だった。小袖の生まれ育ちは、よくわからない。嫁いだ相手は大野定長といって、今の京都府北部の地侍だったといわれている。

小袖は長男を産んだ後で、母乳の出がよかったのだろう。夫の大野定長も同時に浅井家に召し抱えられて、一家で小谷城下に引き移ったらしい。その後も浅井家には女児が続き、お市は茶々を頭に三姉妹の母になった。

だが事情があって、浅井長政と信長の手切れの時が来た。信長は妹の嫁ぎ先を激しく攻撃し、浅井家は敗北。落城直前に、長政は愛妻と三姉妹を小谷城から逃した。

小袖は、お市らの逃走に付き従った。茶々は5歳、末娘のお江は、まだ赤ん坊だった。この時、夫の大野定長や息子も同行したらしい。

信長は長政を討ち果たした後、落ち延びてきた一同を受け入れた。三姉妹は姪であり、先々、政略結婚の持ち駒にもできる。以来一同は、信長の城のひとつ、清州城で暮らした。

 

しかし茶々が14歳の時に、突如、大事件が起きた。本能寺の変で、信長が謀反に遭って命を落としたのだ。

庇護者を失った女たちを引き取ったのは、信長の重臣、柴田勝家だ。肖像画で見ると、強面の武将だが、心根は優しかったらしい。柴田勝家の城は北之庄といって、今の福井市内にあった。

お市は勝家に再縁し、小袖も三姉妹を引き連れて北之庄に移った。だが穏やかな暮らしは長くは続かなかった。再縁から半年ほどで、勝家は秀吉と戦って敗北したのだ。

またも落城に追い込まれたが、お市は城に留まった。ここで落ち延びれば、今度は秀吉が3人目の夫になる。「お市の方は命が惜しくて夫を3人も変えた」と言われたくなかったのだろう。

三姉妹を小袖に託し、みずからは勝家とともに、炎上する城中で果てた。この時から小袖には、両親を失った姉妹を育て上げる責任が課せられた。並ならぬ覚悟があったことだろう。

 

一方、秀吉は勝家を亡き者にすると、大阪城の築城に取りかかった。今も威容を誇る天下の巨城によって、権力を誇示したのだ。

かつて秀吉には、妾腹(しょうふく)の男児が生まれたことがあった。だが早世してしまい、以来、2人目が授からない。そのため実子を諦めきれず、何人もの側室を持った。

特に高貴な血統の女性を好み、信長の姪である茶々も側室にして寵愛した。小袖としては忸怩(じくじ)たる思いがあっただろうが、それが戦国の習いだった。

茶々の乳兄弟だった小袖の長男は、この頃に元服。大野治長と名乗って、秀吉の家臣になった。

茶々は21歳で子を宿した。秀吉は大喜びして大阪郊外の淀城を与え、そのために淀殿と呼ばれたのだ。

そうして男児が生まれたが、3歳で早世。この頃、すでに妹たちは嫁いでおり、茶々の悲しみを受け止めるのは、もはや小袖しかいなかった。

2年後に、ふたたび茶々が懐妊。今度は元気な男児に恵まれ、豊臣秀頼と名づけられた。しかし秀頼が6つの時、秀吉は一人息子の先行きを案じつつ、62歳で病没。特に徳川家康には「くれぐれも秀頼を頼む」と遺言した。

策士家康との精一杯の闘い

だが、そんな甘い願いを聞く家康ではなかった。まずは秀吉の正妻だった寧々と茶々が不仲だという噂を立てて、豊臣家の分裂を図った。

これに対して、小袖は大蔵卿局と名乗り、京都にいた寧々や、家康のもとを奔走して、火消しに全力を尽くした。

そうしているうちに罠が仕掛けられた。秀頼の側近を務めていた大野治長が、家康暗殺の嫌疑をかけられて捕縛されてしまったのだ。弁明の機会も与えられずに、小袖までもが、治長と共に北関東に追放された。家康は有能な側近を、豊臣家から引き離したのだ。

小袖の幽閉は9ヶ月に及び、その間に家康は天下分け目の合戦を仕掛けた。しかも豊臣家が西軍を率いて、徳川家の東軍と戦うと世間に印象づけた。豊臣家を一気に叩くつもりだったらしい。

いよいよ合戦の前哨戦が始まるという段になって、小袖は急に解放されて大阪城に帰った。家康の思惑としては、無実でつかまって恨みを抱く小袖が、かならずや豊臣家を西軍につかせると、期待したのだろう。

大阪では8歳の秀頼が、まさに西軍の大将に祭り上げられようとしていた。小袖は、みごとに家康の期待を裏切り、西軍への加担を引き止めて、奇策に出た。城内には秀吉が貯めた金銀財宝があり、その一部を軍資金として、豊臣家から徳川家に下げ渡したのだ。

天下分け目の合戦は関ヶ原で戦われ、徳川方が勝利。軍資金提供によって、すでに豊臣家は中立を明らかにしており、からくも滅亡をまぬがれた。大野治長も、ようやく釈放された。

 

その後、秀頼は威風堂々たる武将へと成長。秀吉は小柄だったが、茶々は父の浅井長政に似て大柄な女性であり、そちらの血が出たらしい。だが、それが家康に脅威を抱かせたともいう。

秀頼が22歳の時に、新たな罠が仕掛けられた。豊臣家ゆかりの寺に釣り鐘を寄進したところ、その表面に、家康を呪う文字が彫られていると、言いがかりをつけられたのだ。

この時も小袖が、家康のもとに釈明におもむいた。しかし、この頃の家康は徹頭徹尾、策士だった。さすがに小袖も力及ばず、結局は大阪城攻めの口実を与えてしまった。

徳川方は大軍で大阪城を取り囲み、南蛮渡りの大砲を駆使して攻め立てた。大坂冬の陣だ。これに対して大野治長が秀頼の片腕として陣頭指揮を取った。

大阪城は鉄壁の守りの城であり、徳川方は屋外での長滞陣となって、寒さに脅かされた。そこで家康は講和に転じ、結局、治長が息子2人を人質として差し出して和議を結んだ。小袖の孫たちであり、断腸の思いだっただろう。

 

その後、徳川方は大阪城の命である堀を、勝手に埋め立てて裸城にしてしまった。そして夏の陣として、もう1度大軍で取り囲んだのだ。

もはや人質は見捨てざるを得ず、秀頼は敗北覚悟で受けて立った。最後は首を敵に渡すまいと、残った者たちが城内の火薬庫に集まり、建物ごと着火。小袖は秀頼と茶々、それに治長と共に壮絶な死を迎えたのだ。

 

過酷な戦国の世に翻弄されつつも、茶々の誕生から死まで、精一杯、支え続けた生涯だった。

 

[参考資料]植松三十里著『めのと』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

©HIROYUKI YAMAGUCHI/SEBUN PHOTO /amanaimages

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