新型コロナウイルスの影響で海外に仕事に行けなくなって、なにがいちばん恋しいか考えてみた。もちろん仕事もしたいし、仕事先の人たちにも会いたい。でももっと個人的な感覚として、なにが?と。
するとふたつのなんということはない光景が浮かんできた。
夕方ホテルの部屋にいったん戻り、靴を脱ぐ。足が疲れて重いから足だけ洗ってていねいにタオルで拭く。
冷たい水を飲みながら、ディナーに着ていく服を選ぶ。
昼間はカジュアルな服を着て街を歩いたり、軽い色と素材のドレスを着て仕事をしたけれど、夜は夜。これから行くところに合わせ、持ってきた服でふさわしいものを選ぶ。もし「今夜は屋台に行こう!」ならもちろんそれに合わせて。
初対面で緊張していた初日と違って、帰国が淋しいくらい親しくなった旅先の仕事仲間たちとごはんを食べる予定は、ただ嬉しい。
窓の外は見知らぬ街、見たことのない夜景が広がっている。今日も終わっていくんだと思う。
異国での夜の外出は少し気持ちがぴりっとする。無事に帰れるかな、そんな考えがちらっとよぎる。いやいや、危険なところに行くわけではないし、現地の人もいっしょだし。でも不用心な様子で行くのはよそう、高価すぎるものも身につけまい。心を引き締めて、支度を終える。
少し眠いけれど、今からロビーに降りる。いっしょに仕事をする愛すべき人たちの話を聞き、おいしいものを食べて、夜の街を冒険しよう。
そんな気持ちになってくるあの瞬間が、懐かしくてしかたない。
もうひとつはいつか、台北のホテルから数軒隣のコンビニに、飲みものと子どものお菓子を買いに、子どもとふたりで夜の11時くらいに歩いて出かけたときのことだ。
無事コンビニについて買いものをした後、私たちは帰り道を間違えてホテルの隣のビルに入ってしまった。ホテル周辺のつながりあった建物は複雑な構造をしていて、入り口が似ていたのだ。
自動ドアを入ったら真っ暗で、「間違えた」とふたりとも思った。
奥から人が走ってきてドキドキした。警備員のおじさんだった。ホテルの名前を言うと、おじさんは身振り手振りで「1回ドアを出なくちゃだめだよ。気をつけて!」と言ってくれた。ほっとしてあやまりながら回転ドアを出て、子どもと手をつないだ。
そんな小さなことこそが、大切なことだった。
PROFILE
よしもとばなな:1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著作は30カ国以上で翻訳出版されている。近著に『吹上奇譚 第三話ざしきわらし』などがある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
イラスト/牛久保雅美