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高山たつ|時代を生きた女たち#117

江戸深川の町娘が、御師(おし)と呼ばれるガイド役に従って、女性が足を踏み入れたことのない富士山の頂上を目指した。だが周囲をはばかって、晩秋の閉山後にしか登れず、当日は凄まじい吹雪をついて頂上まで至り、さらに裸足同然になって、命がけで下山した。たつは後進の女性たちに、富士登山の機会を開きたかったが、その望みがかなったのは……。

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高山たつ●1813~1876年
江戸後期に女人禁制を打ち破って初めて富士山に登った女性

かつて富士山は、関東平野のいたるところから望め、人々は日常的に手を合わせた。富士山そのものが信心の対象だったのだ。

平安時代には噴火を繰り返し、室町時代頃までは修験者が登る山だった。だが江戸時代になると富士講という団体旅行が普及し、富士登山は一般化する。ただし女性は登頂できなかった。

そんな江戸後期、女人禁制(にょにんきんせい)の壁を超えて、初めて頂上まで至ったのが高山たつだった。

迷信による女人禁制

富士講には御師(おし)というガイド役がいた。現在の富士吉田市内に浅間(せんげん)神社があり、そこが登山口のひとつだったが、参道には80数軒もの御師の家が並んでいたという。登山口はほかにもあり、相当数の御師がいた。

御師たちは江戸市中や自分の出身地にも住まいを持ち、冬の間は、そちらで民間宗教家として活動した。道徳的に暮らし、真面目に働いていれば、富士山に登れると説いたのだ。庶民は富士講に加わり、金を積み立てるなどして、憧れの富士山を目指した。

夏の山開きの季節になると、御師の先導のもと、その年の希望者たちが揃って出発した。登山の楽しみは道中から始まっていた。街道筋の宿も御師が手配してくれたし、富士山の麓(ふもと)まで行けば、その御師の家に泊まった。そして天候を見極めて、いよいよ山に挑んだのだ。

この団体旅行は男性ばかりだったわけではない。実は二合目までは女性も登れたので、夫婦や家族で出かける者も多かったのだ。

二合目辺りまでは毎年、野焼きをしており、視野をさえぎらない野原が広がって、雄大な富士山が望めた。それだけでも、わくわくしたことだろう。現在、五合目まで自動車で登れるのと、似た感覚かもしれない。

二合目から上は勾配がきつくなり、森の中を歩く。さらに登るにつれて森は消え、土と石だけの世界になる。今なら植生の限界を超えたと理解できるが、昔は理由などわからない。非日常な環境を神聖な場としてとらえた。

昔は女性の仕事は主に家の中で、外の力仕事は男性が担った。そのため男女の体力差が今より大きかった。まして袴(はかま)をはかない女性にとって、裾さばきの悪い着物で急な勾配を登るのは、危険だったのだろう。好意的に考えれば、二合目以上の女人禁制は、そんな危険防止策だったのかもしれない。

それに昔は血を嫌った。流血沙汰が起きると、その場所が血でけがされたと感じ、血そのものも不浄と見なした。そのため毎月、出血をみる女性が、富士山の聖域に足を踏み入れると、神の怒りを買って天候が不順になり、米が不作になるという迷信があった。特に麓の農村では女性の登山を嫌った。

ただし60年に一度めぐりくる庚申(かのえさる)の年が御縁年(ごえんねん)といって、女性にも四合五勺までは登る機会が開かれていた。何十年かに一度の秘仏公開などと同じだ。

 

そんな状況の江戸後期に、高山たつは江戸深川で生まれた。

富士山に登った女性の名前が高山たつとは、出来過ぎのように感じるかもしれない。だが高山は登頂成功後に嫁いでからの苗字であり、父親は深川八名川町の鎌倉屋十兵衛という町人だった。

娘時代には尾張徳川家の江戸藩邸で奥勤めをした。町人や農家の娘が大名屋敷に勤める場合は、行儀見習も兼ねて、住み込みで奥方や姫君づきの下働きをした。尾張藩といえば徳川御三家のひとつであり、下働きといえども格式が高かった。たつの実家も相応の大店(おおだな)だったのだろう。

この頃、小谷三志という人気御師がいた。今の埼玉県川口市鳩ヶ谷の出身で、そこを拠点にして、数万ともいわれる信奉者を抱えていた。

三志は女性をけがれた存在とみなす風潮に反対し、富士登山の男女格差をなくそうとしていた。女性たちにも富士登頂の望みがあり、その声を聞き届けてやりたかったのだろう。

たつは、この御師の先導で富士山に登ったのだ。ただし、それ以前にも三志は、女性を中腹まで連れて行ったことがあった。

それは三志が36歳だった庚申の御縁年。この時の女性の名前はわからないが、五合目の少し上、経ヶ岳(きょうがたけ)まで登った。御縁年でも許されていたのは四合五勺までだったから、禁制を破るところまで進んだのだ。頂上まで行かなかったのは、天候が悪化したか、体力が続かなかったのか、それとも何か妨害が入ったのかもしれない。

次の御縁年まで生きていたとしても三志は96歳。女性のサポート役は、まず無理だ。そこで御縁年を待たず、天保3(1832)年に、たつを連れて頂上を目指したのだった。

強力は下山を勧めた

春の段階で、あらかじめ三志は富士吉田の御師たちを訪ねて、理解を求めた。どの御師も反対はしなかったが、麓の農村に知られると厄介なので、秋の閉山後に密かに登ることになった。

たつと三志のほかに江戸から男性4人が同行し、旧暦の9月25日に富士吉田に到着。そこからは荷物運びの強力(ごうりき)2人が加わり、一行は8人になった。

当時、富士山に登る男性は、四国のお遍路(へんろ) さんなどと同様、笠をかぶり、白い衣装を身に着けた。そこで、たつも白装束の男装になった。

翌26日に登り始め、その日は五合目の中宮社に泊まった。翌朝、御来光を拝み、登り始めると夏のように暖かかった。そのため六合目で、着ていた綿入れを脱ぎ捨てた。

だが旧暦の9月27日といえば、今の暦では10月20日。すでに山頂近くには積雪があった。登るにつれて天気が変わり、九合目からは吹雪になった。

強力たちは「もはやこれまで」と下山を勧めた。三志は「その方らは登るに及ばず」と、自分たちだけで進むと伝えたが、強力も「男はもとより、女の身ではなおさら、ここまでで充分」と言う。

すると、たつが気丈にも「私は登りたい。頂上を極めて帰って、それを女たちに聞かせ、すべての女性たちに登らせたい。頂上まで行かれたら、死んでもかまわない」と言い切った。すると片方の強力が同行を申し出た。

一行は猛吹雪の中を進み、なんとか頂上に達して手を合わせた。予定以上に時間がかかったらしく、下山は午後4時頃になってしまった。はや秋の陽は陰り、登りとは大違いの寒さ。

八合目に至る頃には、全身が凍え、手足も思うように動かない。草鞋すら履き替えられず、とにかく急いで下山したが、草鞋も足袋も破れて裸足同然になったという。足は傷だらけだった。

六合目まで下って、脱ぎ捨ててあった綿入れを羽織り、ようやく人心地ついた。そこで初めて空腹に気づいて、持っていた握り飯を出したが、凍っていて食べられなかった。

それほど過酷な状況の中、必死の思いで五合目の中宮社に駆け込み、翌日、無事に麓まで下ったのだ。

 

その後、たつは高山万次郎という武家に嫁いだ。戦国時代のキリシタン大名で名高い高山右近の子孫だという。

たつの偉業の後、女たちが大挙して登ったわけではない。迷信の壁は大きかったのだ。それでも次の御縁年には、頂上を目指す女たちがいたらしい。

富士山が女性に開放されたのは明治5(1872)年3月、新政府から「女人結界廃止」が発せられたのだ。その時、たつは還暦に近かったが登頂成功と同じくらい嬉しかったかもしれない。その3年後に夫を見送り、翌明治9(1876)年に63歳で亡くなった。

 

参考資料//竹谷靱負著『富士山と女人禁制』、富士吉田市歴史民俗博物館編『冨嶽人物百景』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

©Nopphakhun Duangsri / EyeEm

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