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緒方貞子|時代を生きた女たち#118

もしかしたら、こんな方が多いのではないだろうか。緒方貞子という名前は知っているし、国連難民高等弁務官という長い役職名も目にしたことはある。でも写真は、お年を召してからしか見たことがないし、その前に何をしていたのかは知らない。
いったい緒方貞子とは、どんな女性だったのか。活躍が注目される前に重きをおいて、生涯を振り返ってみたい。

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緒方貞子●1927~2019年
数知れぬ難民の命を救った国際社会の小さな巨人

©UNHCR/E.Brissauc

曽祖父は戦前の首相だった犬養毅。祖父は外務大臣、父の中村豊一も外交官。本人は勉強もスポーツもずば抜けた帰国子女。結婚後は仕事と家庭を両立させ、子供ふたりを育て上げた。

小柄で上品だが、おしとやかではなかったという。声を荒らげることはなく、人の意見をよく聞き、それでいて言うべきことは、はっきり主張した。

これほど恵まれた女性が、難民救済という分野に向かったのには、生涯に、いくつかの転換点があった。

女子大だからこそのリーダー

貞子は現在の港区麻布で誕生。父の海外赴任に家族で同行し、2歳でサンフランシスコに渡った。だが4歳の時に、曽祖父の犬養毅が軍人の凶弾に倒れた。以来、理不尽な死が他人事ではなく育ったことだろう。

その後もアメリカ西海岸や香港などを転々として、日英バイリンガルとして育った。日中戦争が始まると、東京に戻り、ミッションスクールの聖心女子学院に通った。

17歳で東京大空襲を経験した。田園調布の自宅は無事だったが、近所に焼夷弾が落ち、大火傷を負った人に遭遇。友達のいる国が、こんなことをするのはおかしいと感じたという。学校も焼け、混乱の最中に卒業し、その後に疎開した軽井沢で終戦を迎えた。

 

戦後は聖心の専門学校で学業を続けたが、一部が大学に昇格したために、一期生として入学。猛烈な勉学のかたわらテニスにも打ち込み、美智子上皇后とは同じテニス部だった。

聖心女子大学の初代学長は、マザー・ブリットと呼ばれるアメリカ人修道女だった。マザー・ブリットは学生に自治会を組織させ、課外活動や勉強会を催すよう促した。これに応じ、選挙で自治会長になったのが貞子だった。

もし貞子が男女共学に進学していたら、後の活躍はなかったかもしれない。当時なら、まず間違いなく会長は男子学生だ。女子大だからこそ、貞子はトップとして決断し、責任を持って実行することを経験した。

年間ひとりという狭き門だったロータリークラブの奨学金試験を突破し、卒業後、アメリカ東海岸のジョージタウン大学大学院に23歳で留学。

戦後復興中の日本から渡ったため、アメリカの豊かさに驚き、どうしてこんな国を相手に、無謀な戦争を始めてしまったのかと疑問を抱いた。

2年の留学で修士号を得て、帰国後は東京大学の特別研究生になり、日本の外交史を勉強し直した。さらにカリフォルニア大学に再留学。だが父の病気のため途中帰国を余儀なくされた。

それでもカリフォルニア大に博士論文を提出しようと、満州事変をテーマに選んだ。日本が戦争に向かう発端となった事件だ。貞子は当時の関係者に会い、未公開だった軍関係の日誌をひもといて、実地に調査。

そして結論として、日本のリーダーたちが毅然とした態度を取らず、勇ましい声に流された無責任のゆえに、戦争が起きたと断言した。論文は日米両国で高く評価され、博士号を取得しただけでなく、書籍として出版された。

 

33歳で結婚。相手は東大で知り合った、同じ歳の緒方四十郎。やはりアメリカ留学を経験して、日本銀行に勤めていた。彼は結婚後も妻の学業や仕事に理解を示し、生涯、妻の活躍を、わがことのように喜んだという。

長男が生まれて程なく、四十郎がロンドン勤務となり、家族で渡英。だが帰国後、長女が生まれると、学業との両立は難しくなった。子供が熱を出しても出かけなければならず、実家の母を頼ったりもした。外に出て働く母親への目は、今よりなお厳しかった。

そんな時、突然、市川房枝が訪ねてきた。女性の社会進出を推進してきた参議院議員で、貞子にニューヨークの国連総会に行ってくれと頼みにきたのだ。前年まで、日本代表団に女性を参加させてきたが、その年は誰も行かれない。そうなると今までの努力が失われると、強く説得された。

期間は3ヶ月。まだ長女は赤ん坊で、それほど長くは実家の母も預かれず、誰か探さないと無理だった。

すると父が言った。「ああでもないこうでもないと可能性を論じているより、まず出席すると決めて、それから人を探しなさい」

こうして父と夫という男性ふたりの理解により、国連への最初の扉は開かれたのだ。

 

ニューヨークでは各国の代表と、人権や社会問題について討議を重ね、子供たちと会うのを何より楽しみに帰国。だが長女は母の顔を忘れており、貞子は涙をこぼした。置いていった後ろめたさや、可愛そうなことをしてしまったという思いがあったのだろう。

その後も大学の非常勤講師などを務めつつ、国連総会への参加を重ねた。いくら英語が上手でも、白熱した討論の中には、当初、入っていかれなかったが、経験を積むうちに適切に発言できるようになったという。

国際的な活躍の場に踏み出す

48歳で国連公使の話が舞い込んできた。今度の立場は、長期間、ニューヨークで暮らすことになる。すでに数ヶ月前から四十郎がニューヨーク勤務になっており、家族で渡米するには、いいタイミングだった。

だが妙な葉書が届いた。無記名で「これで自分は偉いと思うなよ」というようなことが、鉛筆で汚く書き散らしてあった。秘書役の女性が気味悪がって、貞子に渡したが、一瞥しただけで歯牙にもかけなかった。そんなことには動じない人物だったのだ。

ニューヨーク勤務になってから、当時の福田赳夫首相が渡米してきて「あなたは今まで、どちらにいらしたんですか」と聞いた。それに対して貞子は「台所から国連にやってまいりました」と答えた。普通に家族と暮らしていたことを伝えたかったのだという。

 

国連公使を務めた後は、50代で上智大の教授を務め、アジア各地の貧困や難民、人権侵害などと向き合った。

63歳の時に、彼女の最大の功績となる国連難民高等弁務官のポストが巡りきた。子育ても親の介護も一段落ついており、断る理由はなかった。ただし本人が地位を望んだことはなく、出世欲も保身も無縁だった。

 

世界各地で民族紛争が起きており、就任2ヶ月で難題に直面。イラクでの内紛の末に、少数民族のクルド人が故郷を追われてトルコに向かった。しかし入国を拒まれて、40万人が国境手前の山中で立ち往生してしまったのだ。

すぐに大型ヘリコプターで視察に向かうと、眼下の山肌に、おびただしい数の人々がうごめいていた。地上に降り立てば、女性や子供が多く、だれもが不安にさいなまれて助けを求める。

ただし国連の規定では、国外に出なければ難民と認められず、本来は助けられない。でも放っておけば命はない。貞子は規定を曲げて、国連による大規模な救援を決めた。

保身に無縁だったからこそ、自分の責任で決断できたのだ。学生時代の自治会でも、カリフォルニア大に提出した論文でも、貞子は責任の重要性に気づいていた。

 

以来、世界各地で発生した難民に迅速に対応。15キロの防弾チョッキを身に着けて、危険地域を視察する姿は、小さな巨人と呼ばれ、とほうもない数の命を救い続けた。

73歳まで国連で働き、その後は外務大臣にという誘いを断って、国際協力機構(JICA)の理事長に。日本から開発途上国への支援に尽力した。

令和元年10月、92歳で天寿をまっとうした。まさに時代が求め、世界が求め、それに応えた生涯だった。

 

参考資料/小山靖史著『緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で』、黒田龍彦著『緒方貞子という生き方』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『かちがらす 幕末の肥前佐賀』(小学館文庫)。https://note.com/30miles

©bez_bretelky

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