新商品

新商品 9/22新着

オルビスユー ミスト
ルースパウダー
リンクルホワイトエッセンス

特集

  • 乾燥対策スキンケア アップデートのススメ
  • 幸せ印象UPへ導くエイジングケア特集
読み物

読み物-日々をここちよく-

モデル黒田知永子さん×ヘア&メイク徳田郁子さん に聞く「キレイの紡ぎ方」
おうちでも外出先でも24時間保湿で乾燥対策/乾燥とくすみの徹底ケア#1
「オルビスユー ミスト」でうるおいを。肌と心を労わる4つの保湿テクニック
今月の新発売アイテム&おすすめポイント【2021年10月号】
  • コラム&エッセイ

196 view

林芙美子|時代を生きた女たち#119

近年の言葉を使うなら、まさに「肉食女子」だ。生活力に富み、みずから恋を求めて生きた。その背景には母からの影響があった。やはり生活力があり、恋多き女で、芙美子を連れて、九州各地や瀬戸内海沿岸を移り住んだ。
その頃の経験が『放浪記』を書かせ、20代半ばで大人気作家への道が開けた。その後も旅を続けたものの、晩年には……。

この記事をお気に入りに追加

林 芙美子●1903~1951年
森 光子の芝居で知られる『放浪記』の原作者は見知らぬ土地を愛した

 

誕生は明治36年。本人は下関生まれだと思い込んでいたが、実は関門海峡をはさんだ九州側、門司だったと後に判明した。

母のキクは、もともと鹿児島の漢方薬店の娘だった。しかし弟が営む桜島の温泉宿を手伝ううちに、宮田麻太郎という行商人と懇意になり、彼を追いかけて家を飛び出した。

すでにキクは父親の違う子を三人産んでおり、四人目が芙美子だった。上の三人は里子にでも出したのか、一緒に暮らすことはなかったらしい。

麻太郎は行商を辞め、下関でキクとふたり、質流れの品を扱う店を開いた。ちょうど日露戦争の特需景気の頃で、北九州や長崎、熊本にも支店を出すほどに成功した。

おかげで芙美子の幼少期は裕福だった。しかし7歳の時に、長崎から逃げてきたという芸者が、家に転がり込んだ。麻太郎は鷹揚で、そのまま住まわせ続けたが、キクは、そんなことを耐え忍ぶ女ではなかった。

 

芙美子を連れて、店で働いていた沢井喜三郎と一緒に出奔。喜三郎はキクよりも20歳も若かったという。写真で見る限り、キクは細面に鼻筋が通り、整った顔立ちだが、麻太郎も喜三郎も美男だった。

キクと喜三郎は古着の行商を始め、九州各地の木賃宿を点々とした。芙美子は鹿児島の祖母に預けられた時期もあったが、ろくに学校には通わせてもらえず、結局、親に同行して10回も転校を繰り返した。当然、友達もできず、嫌になって小学校を辞めた。

すでに12歳になっており、大量のアンパンを担いで行商に出た。好景気に湧く炭鉱町に滞在し、キクはバナナの露天商で、売れ行きは天気次第。喜三郎は遠くまで陶器の行商に出かけ、しばらく音沙汰がない。芙美子は雨降りでも家々を訪ね歩いてはアンパンを売った。だが自分の働きで金を稼げるのは楽しかった。

 

この頃の夢は女成金。大正年間は才覚ひとつで、とてつもない金持ちに成り上がれた時代だった。

喜三郎が戻り、翌年、三人で瀬戸内海沿岸の尾道に移った。尾道にほど近い因島には造船所があり、未曾有の造船景気に湧いていたのだ。現在は、しまなみ海道の橋がかかる海域だ。

三人は尾道に落ち着き、芙美子は二年遅れで小学校に復学。ここで文学と絵の才能を見出され、教師に女学校進学を勧められた。女学校など、よほど文化的な家庭の娘に限られていたが、キクも娘の進学をかたく決意。

 

この頃、芙美子は初恋をした。相手は岡野軍一といって、因島の素封家(そほうか)の息子。広島方面の中学で学んでおり、因島に帰る際に、6歳下の芙美子と知り合ったのだ。

彼にふさわしい女性になりたいという思いもあったのだろう。14歳で尾道市立高等女学校に進学。学費を稼ぐために夜は帆布工場で働き、夏休みには神戸の資産家の家に、住み込みの手伝いに入った。

その後、岡野軍一は明治大学に進学し、東京から翻訳小説などを送ってくれた。芙美子はむさぼるように読み、雑誌や新聞に詩や文章が掲載されるようになった。

 

18歳で軍一を頼って上京。だが軍一は家族に結婚を猛反対され、因島に帰ってしまった。芙美子は島まで追いかけていき、長く育んだ恋が破れたことを、嫌というほど思い知らされた。

たったひとりでパリへ

傷心で東京に戻ると、玩具工場やカフェーなど、あらゆる仕事に就きながら、作家や詩人などの文化人たちと交わり、恋を繰り返した。一途な初恋の反動だろう。

芙美子は母とは異なり、丸顔で鼻も丸い。けっして美人ではなかったというが、愛嬌があったのか、カフェーでも客からの人気は高かった。

本人は、いわゆる面食い。付き合っているうちに、たいがい男の方から逃げ出したが、長く続きそうな「いい人」に限って、芙美子から別れた。

 

例外が画学生の手塚緑敏(ろくびん)だった。いかにも優しそうな顔立ちで、23歳から同棲を始め、生涯の伴侶にまでなった。それでも彼の優しさに甘えて、芙美子の恋愛遍歴は止まらなかった。

この頃、自作の詩や童話を雑誌社などに持ち込んだが、さんざん待たされた挙げ句に、原稿を突っ返された。その後、ほぼ同じ内容の童話が、雑誌に載っているのに気づいた。原稿を読んでくれた編集者の名前で、冒頭と結末だけ変えてあったという。

そんな悔しさを経て、20代半ばで『女人藝術』にたどり着いた。発表の機会に恵まれない女性作家の発掘と、支援を目的にした新しい文芸誌だった。

芙美子は書き溜めた日記を元に『女人藝術』で20回にわたって小説を連載。それが『放浪記』で、ベストセラーになった。後に森光子が、2000回以上も公演を続けた芝居の原作だ。

 

芙美子は以来、次々と作品を発表したが、原稿料や印税を手にするなり、国内外の長期旅行へ飛び出した。放浪を続けることで、新しい題材を求めたのだろう。

特に昭和6年、28歳の時には、たったひとりでシベリア鉄道に乗ってパリへ。ろくに言葉はできないし、今のように旅行情報があるわけでもない。でも子供の頃からの経験によって、どんな土地でも、何をしてでも生きていかれる自信があったのだ。

当時、パリには芸術家を始め、新聞の特派員や実業家など、さまざまな日本人が滞在していた。芙美子は美術館を訪ね、名所旧跡を見物する一方で、日本人社会で恋をしては失恋もした。しだいに滞在費が続かなくなり、優しい手塚緑敏のことも懐かしくなって、10ヶ月ほどで日本に舞い戻った。

 

帰国後は新宿区下落合の西洋館を借りて暮らした。そしてパリでの経験を『下駄で歩いた巴里』と題して発表。

中国との戦争が始まり、従軍作家が組織されると、芙美子は「私費でも行きたい」と名乗り出た。知らない土地を舞台に、戦争に引き裂かれた男女の人間模様を描きたかったのだ。

しかし行ってみれば、戦場は男だけの世界。さらに真珠湾攻撃によって対米戦争に突入すると、作品の内容が制限され始めた。それでも人気作家としての地位は揺るぎなかった。

 

38歳の時に自宅の新築に踏み切った。定住など望んだこともなかったが、それまで暮らしていた西洋館から出なければならなくなった。だが気に入る借家が見つからず、思い切って土地購入から始めたのだ。

2年後、その家に生後4日の男児を迎え、泰(たい)と命名。翌年には、それまで内縁状態だった手塚緑敏を、林家の婿養子として入籍。母のキクを含め、家族4人で暮らした。

 

42歳で終戦。人々は抑圧された時代を乗り越え、新しい読みものを求めており、芙美子は、それに応えられる題材を持っていた。まさに水を得た魚のように書き始めたのだ。

しかし、けっして筆の速い方ではなく、常に締切に追われた。当時、気軽な疲労回復剤として、ヒロポンが流通していた。危険な覚醒剤という認識は薄く、これに手を出さない芸能人や作家はいなかったという。

芙美子も錠剤を服用。ただし副作用として、心臓に負担をかける薬品だった。そのため人気絶頂の最中、48歳で心臓麻痺により急逝。あまりに突然のことに、締切のがれの嘘ではないのかと疑った編集者もいた。

 

下落合の家は現在、新宿区立林芙美子記念館として公開されている。品のいい日本建築で、ここから泰が学習院に通い、緑敏はアトリエで絵を描いた。訪れると、芙美子が放浪の末にたどり着いた、短くも穏やかな暮らしぶりが垣間見え、心救われる思いがする。

 

参考資料/尾形明子著『華やかな孤独 作家 林芙美子』、太田治子著『石の花 林芙美子の真実』、角田光代・橋本由紀子著『林芙美子 女のひとり旅』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『かちがらす 幕末の肥前佐賀』(小学館文庫)。https://note.com/30miles

©Sensay

 

※4月号ORBIS MagazineP22の記載内容を下記の通り修正いたしました。
■「尾道対岸の因島」→「尾道にほど近い因島」
■「18歳で女学校を卒業し、軍一を頼って上京」→「18歳で軍一を頼って上京」

お買いものはこちら