読み物

読み物-日々をここちよく-

未来の肌へつなげるスキンケア -8月のテーマ-
【パーソナルカラーのギモン集】黄み肌=イエベ、色白=ブルベは間違い?
 夏こそ使いたい!ワンランク上のエイジングケアアイテム5選|美肌レッスンA to Z
今月の企画展「私の癒やし」|ここち写真部#6
  • コラム&エッセイ

151 view

太田ひさ|時代を生きた女たち#120

芸名を花子という。幼い頃から家族の縁に恵まれず、旅芸人の一座で子役を務め、失恋や離婚を経て、 34歳で渡欧。日本人の劇団に入って、西ヨーロッパ各国はもとより、トルコ、ロシア、北欧、アメリカまで巡業し、大人気を博した。
その間「考える人」で名高い彫刻家、ロダンのアトリエを、たびたび訪れて、50を超える彫刻のモデルになった。

この記事をお気に入りに追加

太田ひさ●1868~1945年

女優として欧米の観客を感動させ、モデルとしてロダンを魅了した

本名は太田ひさだが、ここでは芸名の花子で通したい。目鼻立ちはめりはりがあって、印象は強いものの、いわゆる整った美人顔ではない。

だが「近代彫刻の父」と称されるフランス人彫刻家、オーギュスト・ロダンは、その表情に魅力を感じた。花子をモデルにした作品は、しかめ面から茫洋とした表情まで50を超える。ひとりのモデルで、これほどの点数は、ロダン作品の中では特出している。

花子はロダン夫人に説得されてヌードにもなった。背丈は138センチで、体重はわずか30キロ。小柄な体は脂肪が削ぎ落とされ、筋肉や関節が、はっきり見えたという。いわば現代の女性アスリートのような肢体だろう。でもヌードはデッサンだけに留まり、彫刻作品にはならなかった。

ロダンがこだわったのは、やはり花子の顔だった。そこには苦労と波乱の前半生が、垣間見えていたのだろう。

台本が読みたくて文字を習得

花子は明治元年、今の愛知県一宮市内で、豪農の長女として生まれた。続いて妹が生まれたため、乳母をつけられた。しかし父と乳母との間に、よからぬ噂が立ったという。

花子は乳母になついていた。また当時の大きな農家の主婦は、子育て以外にも仕事が多く、母ひとりで幼い長女と赤ん坊の次女の世話は難しかった。そのため祖父の判断で、名古屋にあった別宅に、乳母と花子だけで暮らすようになった。

花子は人なつこかったらしく、隣家の子供のいない夫婦に可愛がられ、4歳で養女に。幼い頃から踊りや歌など、習いごとをさせてもらった。

青物商だった養父は無類の相撲好き。巡業が来ると、贔屓の力士を飲み食いさせたり、化粧まわしを新調したり、身のほどを越えて歓待。その結果、借金がかさみ、夫婦喧嘩が絶えなくなって、養父は姿を消した。

9歳の花子は養母と残され、暮らしが立ちゆかなくなった。すると旅芸人の一座から「子役に」と頼まれ、1年間、美濃路や木曽路を旅した。雨の山道を、手を引かれて登った情けなさは、ずっと忘れられなかったという。

 

その後は子供芝居の一座に入り、興行の合間に、かろうじて学校に通った。当初、台詞は口伝えで覚えたが、読み書きができれば台本が読めるからと、カタカナだけは書けるようになった。

12歳で名古屋の花街に舞妓として売られた。それからは置屋の先輩芸者から芸事を仕込まれて、16歳で一本立ち。

20歳の時に身請けしてくれる旦那が現れた。小豆島(あずしま)貞之助といって、荒くれ男が多い港湾土木の取りまとめをしており、きっぷがよくて、後妻として迎えられた。

ただし前妻との間に息子がふたりいて、たいして花子と歳が違わず、反りが合わなかった。そのうえ8歳の隠し子まで現れて、引き取りはしたものの、手に負えない腕白小僧だった。

花子は家を出て離婚を望んだ。すると質店の若主人が、小豆島に頼まれて迎えに来た。これが優男で、離婚の仲裁に入っているうちに、花子と男女の仲になってしまった。花子は、あえて不倫に踏み出すことで、夫との復縁の退路を断ったのかもしれない。

結局、小豆島は男気を見せて、離婚に応じてくれた。ただし「ひょっこり顔を合わすような場所では暮らしてくれるな」という。

そのため、ふたりは国際貿易で賑わう横浜に移った。しかし優男には生活力がなく、気がつけば名古屋の質店に逃げ帰ってしまっていた。

 

そんな時、デンマーク人の興行師から洋行の誘いがあった。コペンハーゲンの動物園で、奇術や曲芸などに混じって、日本舞踊を披露しないかという。花子は34歳。何もかも自分が蒔いた種と悔い、心機一転のつもりで応じたのだった。

ロダンの名刺を紛失して

コペンハーゲンの動物園には小さな日本村がしつらえてあり、そこで日本人一行20人は、それぞれの芸を披露。花子の「越後獅子」や「潮汲」などの踊りも好評を博した。

契約の3ヶ月が終わり、仲間たちは出演料を手に帰国。しかし花子には待っている人も家もない。ひとり残ったところ、ドイツ人興行師と出会った。

その興行師の話によると、ロンドンに日本人の劇団がいて、女優を探しているという。男はちょんまげ、女は日本髪で、古式豊かな着物で演じる日本語劇だった。花子には芝居は子役以来だが、この誘いに乗った。

ちょうどドイツのデュッセルドルフで園芸の国際博覧会が開かれ、日本館ができる時だった。一座は、その呼び物としてロンドンから遠征。花子は途中で合流し、女優デビューしたのだ。

 

この頃、日露戦争が勃発。大国ロシアに立ち向かう日本に、ヨーロッパ中が注目した。これが追い風になって、公演は大成功。その後もドイツ各地からトルコ、イギリスまで巡業した。

花子は台本が読みたくて、文字を覚えた努力家。移動の長距離列車や船の中で、行く先々の言葉を、片言ながらも身につけたという。

現存する写真を見る限り、衣装は重厚感ある本格派。花子は全身が筋肉質というだけあって、そんな衣装で片足立ちしたり、腕を大きく伸ばしたり。ややオーバーアクションで、大きな瞳の動きなど表情も豊かだ。芝居の筋書きはパンフレットで説明してあったが、そんな演技のおかげで、日本語のわからない観客にも感動を与えた。

特に武士の切腹は衝撃だった。花子の役柄は芸者。その後、長く日本のイメージとなった「ゲイシャ」と「ハラキリ」は、もしかしたら、ここから始まったのかもしれない。

 

次に一座が出会ったのが、ロイ・フラーというアメリカ人女性興行師だった。フラー自身、ダンスのパーフォーマーとして名を成しており、演出や宣伝の腕もあった。

フラーは、それまで脇役だった花子を座長に仕立て「日本で有名な大女優」という触れ込みで宣伝。芝居の筋書きも大胆に手直しし、本当は男性に限られていた切腹を、花子に演じさせた。

最初の公演は南フランスのマルセイユ。ここでも国際博覧会が開かれ、フラーの名前を冠した劇場ができていた。その目玉が花子一座だったのだ。

フラーは旧知のロダンを、この観劇に誘った。するとロダンは、花子の切腹に目を奪われた。ヨーロッパの演劇にはない迫真の表情だったのだ。そこで「パリに来たら寄ってくれ」と名刺を渡したが、花子はロダンの名声を知らず、名刺はなくしてしまった。

 

その後、一座は劇場や興行師と利益の分配などで揉めながらも、アメリカやロシアまで足を延ばし、一流の劇場で演じた。ようやくロダンのパリのアトリエを訪ねたのは、名刺をもらった4年後。花子は42歳になっていた。

ロダンは眼の前で花子に切腹を演じさせ、苦しげな「死の顔」という作品を制作。休憩中ぼんやりしていると、今度は「空想に耽る女」を作った。その後、花子は巡業先から手紙のやり取りを重ね、たびたびアトリエを訪ねては、モデルを務めたのだ。

 

ロダンが亡くなって5年後、53歳で帰国。妹が経営する芸者置屋に身を寄せ、昭和20年、77歳まで健在だった。

だが日本では旅芸人扱いで、演技は評価されず、ロダンのモデルとして注目されただけだった。あれほど世界を魅了した女優なのに、今もって花子の名は、ほとんど知られていない。

 

参考資料/大野芳著『マダム・ハナコ』、資延勲著『ロダンと花子』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『かちがらす 幕末の肥前佐賀』(小学館文庫)。https://note.com/30miles

©Paul Quayle / Alamy Stock Photo

お買いものはこちら