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南田洋子|時代を生きた女たち#121

あれほど上品で気取りがなく、穏やかで優しげな雰囲気の女優を、ほかに知らない。だが、その陰には14 年も続いた舅の介護や、夫の浮気、膨大な借金まであった。
今の感覚では離婚しなかったのが不思議なくらいだが、夫を愛し続け、晩年は自分が介護される立場になった。その時こそ、本当の「おしどり夫婦」になれたという。

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南田洋子●1933~2009年

夫の長門裕之と音楽番組の司会を16 年も続けた「おしどり夫婦」

洋子は現在の東京都港区三田の生まれで、生家は大きな米穀商だったが、祖父から父に代替わりして、貸しビル業に転じた。4歳で日中戦争が始まり、12歳で終戦。貸しビルが戦災に遭って暮らしが立ち行かなくなったようで、一家で茨城県土浦市に転居した。

洋子は16歳で上京。美術系の文化学院に在学中に、大手映画会社である大映のニューフェイス試験を受けて合格し、19歳で銀幕デビューした。

すぐにヒット作に恵まれ、一躍人気女優に。22歳で大映から日活に移り、注目の移籍第1作目が『太陽の季節』の主演女優。石原慎太郎の芥川賞受賞作の映画化で、当時は湘南の奔放な若者たちを描く問題作だった。

この時の相手役が長門裕之。『太陽の季節』といえば石原裕次郎のイメージが強いが、あくまでも彼は、これがデビュー作の端役だった。

長門裕之は祖父が狂言作者で、父の澤村國太郎は時代劇映画の大スター。母も時代劇の姫君役で活躍したマキノ智子。叔母は昭和のテレビドラマで人気の沢村貞子で、弟は正統派美男俳優、津川雅彦という役者一家。

裕之は6歳から子役を務め、叔母の沢村貞子に「どんなに頑張ったって、あんたの鼻は雅彦みたいに高くなりゃしないんだから、芝居で勝負しなさい」と言われた。芸歴こそ長かったが『太陽の季節』の準主役は大抜擢だった。

すでに洋子は看板女優で、黒豹のファーコートに黒いサングラス姿で、撮影現場に真っ赤なフォードに乗って登場。でも先に心惹かれたのは洋子だった。

なかなか豪胆なところがあって、スタッフと一緒の食事に裕之を誘い、中華料理を全品注文した。1歳下の裕之は、朝昼で肉まん半分ずつ、鮭の切り身を半分という貧乏暮らしで、ただ驚くばかりだった。

すでに洋子は世田谷に家を建てて暮らしており、そこに裕之が転がり込んだ。双方、結婚を望んだが、洋子の父は「娘より稼ぎが悪くては嫁にはやらん」という昔気質だった。当時、洋子の月収は170万円。裕之の10倍だった。

それから3年後に裕之がブルーリボン賞主演男優賞を獲得し、ギャラは一本100万円に跳ね上がった。すると映画仲間や記者たちが開いてくれた祝賀の席で、裕之は突然、結婚を宣言。洋子はサプライズに涙し、記者たちはいっせいに会場から飛び出していった。

翌朝のスポーツ新聞の大見出しは「南田洋子結婚!」で、その脇に「相手は長門裕之」と添えてあった。

 

「頑張りすぎるな」と言われて

当時は夫の両親との同居が当然だったが、結婚とほぼ同時に、澤村國太郎が脳内出血で体が不自由になった。洋子は母も祖母も舅姑の世話をしたのを見ており、介護は嫁の役目と、ためらいなく舅に手を貸した。

また当時は大女優であろうと人気歌手であろうと、結婚すれば引退するものだった。現に同じ日活の人気女優だった北原三枝は、石原裕次郎と結婚して家庭に入った。

もし女性が結婚後も外で働くなら、しっかり家事を果たしてからという時代でもあった。裕之は俳優一家だけに、女優の仕事には理解があったが、洋子自身が当時の常識に縛られていた。夜、遅くまで女優業に励み、帰宅するなりスウェットの上下に着替えて、かいがいしく介護に努めた。

そうなると舅は嫁に頼る。往年の大スターというプライドがあって、特に下の世話は、洋子以外の介助を拒んだ。どれほど下半身が不快な状態になっても、嫁が帰るまで待っている。悪臭の中、洋子が片づけるしかなかった。

 

せめて姑には手伝ってもらいたかったが、マキノ智子は人を雇えばいいと考えていたのか、夫の介護には背を向けた。この関係が、新聞や雑誌に書き立てられ、嫁姑はぎくしゃくし、間に入った裕之は「母親と女房のどちらかを崖から突き落とせと言われたら、俺が飛び降りる」と言い放った。

それでいて裕之は「頑張りすぎるな」と言う。しかし頼ってくる舅を突き放せず、洋子は頑張るしかなかった。

そこに、もうひとつ苦労が重なった。裕之の浮気だ。裕之は結婚してすぐに「本当にいい女と出会えた」と思ったという。そんな「大女優に愛されている俺」が、どこまで愛されているのか試したくなったのかもしれない。格差婚にはありがちなことだ。

 

結婚数年後のこと。夫婦でパーティに出て、帰りがけにエレベーターを待っていると、若い女優がいきなり2人の前で「洋子さん、離婚してください」と土下座した。すると洋子は「この人、あなたが考えているよりも駄目な人なのよ。だから諦めた方がいいわよ」と言って、後輩女優を立ち上がらせた。

京都の茶屋で、裕之の膝で舞妓が泣いている場に出くわしたこともある。舞妓から「ここは私らのお城です。洋子ねえさんは出ていっておくれやす」と言われ「ごめんね、でも、うちの旦那は私にとっても大事な人だから」と言い置いて店を出た。

 

借金の苦労も加わった。裕之は原宿のハイブランドビルの最上階に、豪華なステーキハウスを、何の相談もなく開店。「明後日、オープニングだから、ドレスで出ろよ」と言われて、洋子は初めて知った。だが、すぐに店は閑古鳥が鳴き、5年しか持たなかった。

さらにプロダクションを独立させ、凝ったドラマを何作も作った。洋子は夫の道楽と割り切っていたが、さすがに「もうやめましょう」と言った時には、4億円もの借金ができていた。

 

ドラマ制作を諦めた夫へのご褒美か、さらに銀行から一千万円を借りて、夫にはベンツを、自分には競走馬を買った。競馬は洋子のストレス解消だった。この辺の豪胆さは、中華料理を全品頼んだ頃と変わらない。

 

一度だけ離婚を考えたという。それは東京都知事選挙の応援演説に行くかどうかで喧嘩になり、鼓膜が破れるほどの張り手が飛んできたのだ。だが洋子には愛する男と別れて、ひとりになる自信がなかった。それに夫の「本当にいい女と出会えた」という思いを裏切れなかったのだろう。

 

舅の介護は14年。それと重なるように、2人で「ミュージックフェア」の司会を16年も務め、「おしどり夫婦」と呼ばれたが、実態はそんな風だった。

 

自分が介護される立場に

71歳になった頃、洋子は台詞が覚えられなくなった。当初は年齢のせいと片づけていたが、わずか3年で言葉まで不自由になってしまった。

若い頃に大腸ポリープの手術を受け、当時の管理不充分な輸血からC型肝炎に罹患していた。それが原因の認知症で進行が速かったのだ。裕之は、かつての妻と同じ介護を経験した。

そして「徹子の部屋」に出演し、夫婦で仲のよかった黒柳徹子に、少し愚痴をこぼすつもりが、すっかり妻の病状を打ち明けてしまった。結婚発表と同じように衝撃的な発表になった。

世の中に問題提起したかったのだろう。その後、ドキュメンタリー番組にも夫婦で登場した。視聴者は美しかった南田洋子の急変に驚きはしたが、感動的な番組になった。

 

裕之には頼ってくる洋子が愛しかった。ロケで何日も出張すると感づくと「明日、帰る?」と何度も聞かれ、帰宅するなり満面の笑顔で迎えられた。子供に戻ってしまった妻とじゃれ合うのも楽しかった。

本当の「おしどり夫婦」になったのは、その頃だった。だが、しだいに洋子は無反応になり、それが何よりつらかったという。洋子は76歳で他界。ほぼ1年半後には、裕之も世を去った。

 

 

参考資料/南田洋子著『介護のあのとき』、長門裕之著『待ってくれ、洋子』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『かちがらす 幕末の肥前佐賀』(小学館文庫)。https://note.com/30miles

©Paul Quayle / Alamy Stock Photo

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