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ヘレン・ケラー|時代を生きた女たち#122

たいがいの方が、子どもの頃に伝記を読んだか、その後、映画か芝居を観たことだろう。ポンプの水で暗黒の世界から抜け出したシーンは、やはり感動的だ。でも、それはヘレンの人生の序章にすぎなかった。アン・サリバンの結婚や、恋人との離別を経つつ、ヘレンは多くの人々に感動と勇気を与えた。

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ヘレン・ケラー●1880~1968年

子ども向けの伝記だけでは収まりきらない人生

ヘレン・ケラーは1880年にアメリカ南部のアラバマ州で生まれた。父アーサー・ケラーは裕福な農場主で、南北戦争に従軍した将校でもあり、地元紙の発行も手がける名士だった。

アーサーは最初の妻に先立たれ、42歳の時に20歳下のケイトと再婚。そして生まれたのがヘレンだった。生後6カ月から簡単な挨拶や「ティー」「ウォーター」などの言葉を口にし、1歳の誕生日には歩き始めた。

だが1歳7カ月で熱病のために視力と聴力を失った。人の話が聞こえないために、おのずから言葉を覚えることもなくなった。

それからは手探りで庭を歩き、花の香りを楽しみ、農場の鶏や七面鳥とたわむれた。人を呼ぶ時は相手の手を引き、逆の時には押し返すなど、60種類ほどの仕草を使った。洗濯物を畳んで、誰のものか仕分けもできた。

だが成長するにつれ、意思を伝えきれないもどかしさで、日に何度も癇癪を起こした。周囲の人々は仕草ではなく、唇を動かしていると気づき、自分が人とは違うことも自覚していた。

いたずら好きで、母が食料庫にいる間に鍵をかけてしまい、中から扉をたたく振動に大喜びをした。また、ある時は、濡れたエプロンを暖炉の火で乾かそうとして、エプロンに燃え移り、あわや大火傷ということもあった。

 

6歳の時、東部に名医と評判の眼科医がいるとわかり、父がヘレンを汽車で連れて行った。治療は不可能だったが、電話の発明者であるグラハム・ベルに相談するよう勧められた。

もともとベルは聴覚障害者の教育に尽力しており、彼らのために人の声の波形を記録する装置を作った。これが電話の発明につながったのだ。

ベルはボストンにある盲学校の校長を紹介し、そこから卒業生のアン・サリバンが、家庭教師としてヘレンの家に派遣されてきたのだった。

アンは盲学校入学を直訴した

アンは東部ニューイングランドの生まれで、5歳の時にトラコーマが悪化して、ほとんど視力を失い、9歳で母が病没。父は大酒飲みで働きがなく、残された子どもたちの面倒をみなかった。そのため弟とふたり、救貧院と呼ばれる施設に引き取られた。だが栄養事情も衛生環境も劣悪で、幼い弟が亡くなった。

ひとりになったアンは盲学校というものがあると知り、なんとしても入りたいと望んだ。そして慈善委員会の人々が調査に来た際に、必死の思いで入学を訴えた。すると数日後に、迎えが来てくれたのだ。

だが盲学校では従順な生徒ではなかった。偽善的なことには猛反発し、教師に嫌われて退学処分寸前まで至った。2年目の夏休みに、若い眼科医がアンの目の手術を試みた。これによって完全ではないものの視力を回復し、本や雑誌を読めるようになった。

するとアンは落ち着き、優秀な成績で盲学校を卒業。だが視力の弱さが災いして、仕事が見つからなかった。そこにケラー家からの求人があった。アンは20歳という若さで遠いアラバマにおもむき、ヘレンと出会ったのだ。

アンは自分が学ぶ喜びを知っていたからこそ、ヘレンにも教えたかったのだろう。ボストンから持参した人形を与え、指文字でDOLLと綴った。ほかにも、いろいろなものの名前を指文字で教えた。ヘレンも真似るようになったが、意味は理解できない。

数週間も根気強く教え続け、ある時、複数の人形を触らせて、どれもDOLLだとわからせようとした。だがヘレンは飽きて人形を投げつけた。陶器の人形の顔は床に当たって砕け、それをアンが掃き集める気配に、ヘレンは清々したとばかりに小躍りした。

そのままアンがヘレンを外に連れ出すと、誰かが井戸のポンプで水を汲んでいた。アンはヘレンの片手を流れ出る水に導いた。そして、もう片方にWATERと何度も綴った。その時、ヘレンの中で、手に注がれる冷たくて心地よいものと、アンの綴りと、赤ん坊の頃に覚えた「ウォーター」の言葉が、ひとつにつながったのだ。

それからは、手に触れるすべてのものに名前があるのだと夢中になった。そして部屋に入るなり、人形のことを思い出した。手探りで破片を探し出し、もとに戻そうとしたが、もう戻らない。なんてひどいことをしてしまったかと泣いた。

この時、生まれて初めて後悔と哀しみを覚えたという。言葉の理解と同時に、苛立ちや癇癪とは異なる繊細な感情を取り戻したのだ。

穏やかではなかったケラー家

まだまだ南北戦争の対立感情が残っている時代だった。そこまでアンが結果を出しても、男たちからは「北部から来た女が偉そうにするな」という罵倒を受けたという。

ケラー家には前妻の子で、ヘレンにとっては年の離れた兄たちがいた。彼らは若い継母のケイトにも反感を抱いており、アンを罵倒したのが誰とは記録にはないものの、彼らだったのかもしれない。ケラー家は、けっして温かい家庭ではなかったのだ。

その後、アンは両親の理解を得て、ヘレンをボストンの盲学校に連れて行き、ニューヨークの聾学校でも訓練を受けさせた。その結果、小声ながらも言葉を発せられるようになった。

ヘレンは大学進学を目指し、ケンブリッジの女学校に入学。大学入試までにフランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語を読みこなすまでに至った。

20歳でハーバード大学の女子部だったラドクリフ・カレッジに入学。しかし授業ごとの課題は膨大で、健常者でもたいへんな勉強量だった。それをアンの指文字や点訳を介して乗り越えるのは、とてつもない努力を要した。

ヘレンが大学に抱いていた夢は打ち砕かれた。ただただ勉強にせいいっぱいで、教授や仲間たちと交流する余裕もなかったのだ。それでもアンの懸命な手助けで、卒業の栄冠を手にした。

 

在学中にヘレンは自伝の執筆を勧められた。すでに父は亡く、暮らしのために引き受けた。これを支えた編集者が、ハーバード大学の講師でもあったジョン・メーシーだった。

アンはジョンと恋に落ち、4年の歳月を経て、ヘレンとの同居を条件に結婚に踏み切った。するとジョンの影響でヘレンが思想的に左傾化し、アンは賛同しなかった。そんなことから夫婦仲に亀裂が入り、10年を経ずして、ジョンはほかの女性に奔った。

ヘレンも36歳の時に、結婚の機会が訪れた。相手はピーター・フェイガンというジャーナリスト。しかしピーターはアンやヘレンの母に相談せずに、駆け落ちまで計画。それが不審を呼び、周囲の猛反対を受けて、恋は実らなかった。

その後も見ず知らずの男性から、プロポーズの手紙をもらった。これには何回か手紙をやり取りし、熟考の末に断った。結婚願望はあったし、子どもを持つ夢も抱いていたのだろう。

ヘレンは「鋼鉄王」の異名を持つ大富豪カーネギーなどの支援を受けつつも、暮らしは楽ではなかった。そのため講演旅行はもとより、アンとともに映画やショーの舞台にも立ち続けた。

 

日本との縁は深く、来日は3回。56歳の初回から、すでにアンは亡く、ポリー・トムソンという女性が世話役として同行した。3カ月に及ぶ滞在で講演は97回、20万人近い人々に感動と勇気を与えた。またヘレンは渋谷駅前のハチ公像に手を触れた時に、犬好きと知られ、秋田犬が贈られた。

80歳でポリーにも先立たれると、しだいに活動から身を引き、87歳で天に召された。

 

参考資料/ヘレン・ケラー著、小倉慶郎訳『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』、山崎邦夫著『年譜で読むヘレン・ケラー』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『かちがらす 幕末の肥前佐賀』(小学館文庫)。https://note.com/30miles

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