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中山マサ|時代を生きた女たち#123

日本で最初の女性大臣は誰か、ご存じの方は、そう多くはないだろう。それは中山マサ。美しい人だが、単に内閣に花を添えるという存在ではなく、実にパワフル。4人の男児を育て上げ、夫の選挙を手伝いつつ、最初に議員当選したのが56歳。シベリア抑留者の引揚げや、角膜移植法などを進展させ、69歳で厚生大臣に就任した。

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中山マサ●1891~1976年

弱者救済に力をつくした日本初の女性大臣

マサの父親はロドニー・H・パワーズ。母は飯田ナカ。今では、そう流布されているが、マサが亡くなった翌年、長男が刊行した『おマサさん 母・中山マサの生涯』には、マサの両親とも日本人と書かれている。本人が、そう公言していたのかもしれない。しかし特に若い頃の写真では、いかにも西洋の血を受け継いだ顔立ちだ。

もともとパワーズはアメリカ海軍の軍艦乗りだったが、明治元年に長崎に来航し、そのまま31歳で除隊。外国船への物資供給などで成功を収めた。長崎の外国人貿易商として名高いグラバーやリンガーなどと、同じような経営者だったらしい。

マサは明治24年生まれ。パワーズが50代半ばで授かった娘で、長崎師範学校の付属小学校から、ミッションスクールの活水女学校に進学。まぎれもなく令嬢育ちだが、両親は正式な結婚をしていなかった。

今ならロマンチックに感じるが、当時としては伏せておきたいことだったのかもしれない。でも、その辺の微妙な部分こそが、彼女の生涯に大きな影響を及ぼしたのは疑いない。

女学校卒業の前年、パワーズが73歳で他界。不動産など充分な遺産が残され、暮らしには困らなかったが、後ろ盾を失った心細さはあっただろう。

そんな時、活水女学校のアメリカ人女性宣教師に留学を勧められた。マサの優秀さを見込んで、帰国後は活水の教師にと期待をかけてくれたのだ。

ただ当時は高学歴の女性は、どうしても縁遠くなりがち。特に大学卒業まで留学すれば、年齢的にも当時の婚期を逃すことになる。

だがマサとしては教師として働いて、母の面倒をみたかったし、父の故国への憧れもあったのだろう。思い切って渡米を決意した。

女性宣教師が世話してくれた留学先は、アメリカ東部にあるメソジスト系の大学。メソジストは特に弱者救済に熱心なキリスト教の一派だ。マサは英文学を専攻し、英語の上達を目指して、選択科目でスピーチを修得。そういった経験が、後々に生きてくる。

入学試験の準備期間も入れて5年間の滞在となり、学位を取って25歳で帰国。予定通り母校で英語を教えた。アメリカのフランクな人間関係に親しんだせいか、陽気で明るい教師として、生徒たちの人気を博した。

美人としても評判で、結婚の申込みは一度ならずとあったが、気乗りせず断っていた。しかし31歳の時に知人の紹介で、大阪で開業する青年弁護士、中山福蔵とめぐり会った。

双方、好感を抱いたが、マサは母を長崎に残していくのが気がかりだった。しかしナカは娘の幸せを願って背中を押し、マサは教師を辞して、大阪に嫁いだ。

夫の夢を支え続けて当選

かねてより中山福蔵は、国政に打って出たいという志を持っており、結婚の翌年、衆議院総選挙に立候補した。

マサは初めての妊娠中にもかかわらず、毎日へとへとになるまで、一軒ずつ頭を下げてまわった。まだ戸別訪問が禁じられていない時代だった。

しかし得票数は、わずか700という大惨敗。「なぜ理解されない?」と嘆く夫に、マサは「700人も理解してくれたのよ」と励ました。

4年後の昭和3年の選挙にも落選。昭和5年も落選。弁護士の稼ぎは選挙のたびに消えていき、まして選挙中は仕事ができずに無収入になる。やりくりは楽ではなかった。

当時は「産めよ増やせよ」の時代であり、その間、マサは4人の男児を出産。選挙のたびに大きなお腹を抱え、乳児を背負って、支持を訴えて歩いた。

4度目の出馬となる昭和7年には、すでに福蔵は40代半ばになっており、故郷の両親から「これを最後にしなさい」と釘をさされた。

この時、マサは初めて応援演説に立った。女性が大勢の前で話すのが珍しく、大きな注目を浴びた。留学中にスピーチを学んだし、教師時代には、生徒たちの気持ちを自分に集中させて話す経験も積んだ。そうして、夫を当選させたいというマサの真摯な思いは、聞く人の心に響いたのだ。

その勢いに乗り、大きな政党の公認も受けて、選挙区内で1位当選。結婚10年目にして、ようやく夢がかなったのだ。その後も福蔵は毎回、当選を果たし、衆議院議員として活躍した。

結局、マサは6回出産。しかし次男と、家中で可愛がった末娘とが、幼くして感染症で他界。中山家に残ったのは息子4人だった。

とうとう日本は戦争に突入し、昭和17年の選挙で福蔵は落選。彼のリベラルな主張は、勇ましい主戦論の前に、ふるい落とされてしまったのだ。

福蔵は反戦論者の非国民、マサはアメリカのスパイと疑われ、憲兵がつきまとった。息子たちは「非国民の子とは友達になれない」 と言われて孤立した。

弱者救済に努めた議員時代

昭和20年に終戦を迎えた時には、マサは54歳、福蔵57歳、長男20歳、いちばん下の息子は13歳になっていた。

翌年、戦後最初の衆議院選挙が行われた。初めて女性の参政権が認められ、ようやく女性たちが投票も立候補も、できるようになったのだ。

当然、福蔵は立候補したが、またも落選。翌年も選挙が行われたが、選挙区が変更され、それまで立候補していた区が南北に二分されてしまった。

福蔵は両方の選挙区で、夫婦それぞれが立とうと言い出した。支援者たちも「ぜひ」と勧める。マサは、これを受けて、初当選を果たした。

だが福蔵は今度も落選。支援者たちは微妙な雰囲気で、マサは「代われるものなら私と代わって!」と詰め寄ったが、福蔵は堂々と祝福した。そんな結果も覚悟していただろうし、それでへそを曲げる男ではなかった。それから数年後に福蔵は参議院選で当選し、ようやく夫婦揃って喜び合えたのだ。

一方、マサは議員2年で重責が課せられた。終戦から4年を経ても、シベリアには30万もの日本人が抑留されていた。その引揚げの特別委員会で委員長に抜擢されたのだ。夫や息子の帰りを待つ妻や母親たちが日本中におり、まさに女性に切実な問題だった。

ソ連側は「捕虜は帰国ずみ」として取り合わない。マサは進駐軍に足を運んでアメリカの協力を求め、ニューヨークの国連総会にもオブザーバーとして出席。留学で身につけた国際感覚や語学力が生きたのだ。その結果、引揚げ問題は大きな進展を遂げた。

その後は社会福祉に力を注ぎ、まだまだ顧みられなかった高齢者施設の建設や、目の不自由な人々に光をもたらす角膜移植法の成立などに尽力した。

そして69歳の時、池田勇人新内閣の厚生大臣として、女性初の入閣を果たした。新聞はユーモラスに「おばあちゃん大臣の中山さんは……キングサイズと自称する大きなからだをゆすぶって」と書いた。今なら問題になりかねない記事だが、彼女の人となりが伝わってくる。たしかに上背もあり、しっかりした体格で、男性閣僚に囲まれた集合写真でも見劣りしない。

その頃、小児麻痺と呼ばれていたポリオが突然、流行し始めた。マサはアメリカ製ワクチンを大量確保する一方で、苦しい暮らしを強いられているひとり親家庭への児童扶養手当法に尽力。自身が父や子を失った経験があったし、やはり留学当時のメソジストの弱者救済が影響したのだろう。

だが活躍が大きければ大きいほど、女のくせにという反感がついてまわる時代だった。マサの2年後に女性の科学技術庁長官が続いたが、それから20年以上、女性大臣は現れなかった。

 

参考資料/中山太郎著『おマサさん 母・中山マサの生涯』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『徳川最後の将軍 慶喜の本心』(集英社文庫)。

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