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田部井淳子|時代を生きた女たち#124

女性グループによるエベレスト登頂を、世界で最初に成功させたが、その陰には肉体的な苦労や、死と隣り合わせの恐怖のほかに、人間関係の軋轢(あつれき)が伴った。しかし、それを乗り越えたからこそ、後に「登らせ上手」として愛され、大勢に登山の喜びと勇気を与えた。晩年は癌と闘いつつ、最後まで人生を謳歌した。

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田部井淳子●1939~2016年

女性によるエベレスト登頂に世界で最初に成功した登山家

淳子は昭和14年、福島県の三春町で印刷会社を経営する両親のもと、7人きょうだいの末っ子として誕生。

小学校の夏休みに、担任の先生に連れられて那須山系の山に登り、中学高校時代は年の離れた兄が、磐梯山などに連れて行ってくれた。小柄だったこともあり、スポーツは得意ではなかったが、山歩きには自信が持てた。

東京に憧れて、大学は昭和女子大に進学。だが福島弁を気にして、人と関われなくなり、ストレスから神経性の胃炎を発症。その後、友人と奥多摩の御岳山に登り、こんな自然が東京にもあるのかと癒やされた。以来、東京近郊の山々を手始めに、夏の日本アルプスや北海道まで足を延ばした。

卒業後は日本物理学会に就職し、論文誌の編集に携わった。その一方で山岳会に入り、雪山や岩登りも始めた。山の仲間たちを通して、いつしか人と打ち解けられるようになった。

そして田部井政伸と出会った。政伸は難関ルートをいくつも制覇し、登山家の間では名の知られた存在で、淳子には雲の上の人だった。

だが登山口からの帰りのバスで、たまたま隣に座った。その時に、政伸が高校生の頃から、4年間も結核性カリエスで歩けずに寝て過ごしたと聞き、そんなどん底から、これほどの登山家になったのかと感じ入った。

その後も偶然、山で出会うことが重なり、交際が始まった。結婚も意識し、実家に連れて行った。

父は淳子が学生時代に亡くなり、印刷会社は母が引き継いだ。そんな気丈な母が結婚に猛反対。政伸は工業高校出身で、山のほかにもバイクが好きで本田技研工業に勤めていた。しかし母は、娘の夫には一流大学出の公務員か銀行員でもと考えていたのだ。それでも淳子は27歳、政伸は25歳で結婚。

政伸とは別の山岳会に所属していたため、一緒に登ることは滅多になく、淳子は、もっぱら同じ山岳会の男性たちに同行した。だが佐宗ルミエに誘われて、女性ペアで難しい山に挑戦し、女同士の気安さや楽しさに気づいて、ベストパートナーになった。

しかし政伸との結婚の5カ月後、ルミエは別の仲間たちと谷川岳に登り、岩場で転落死。以来、淳子には死が身近になった。

翌年夏、政伸がヨーロッパのマッターホルンに登った。だが凍傷で足の指4本を切断。そのため厳しい岩壁への挑戦を控え、生活スタイルを変えた。山歩きそのものを楽しみ、バイクの趣味も復活した。

女だけでヒマラヤを目指す

一方、淳子は「女子だけで海外遠征を」と、女子登攀(とうはん)クラブを結成した。政伸の勧めもあって、淳子が副隊長を務め、ヒマラヤ山脈のアンナプルナⅢ峰を目指すことになった。

だが渡航準備中に隊員のひとりが体調を崩した。本人は、どうしても行きたいと主張し、行かせたいという仲間もいた。この話がこじれ、出発のわずか20日前に4人が離脱。別々の山岳会で経験を積んだ猛者揃いだけに、統率を取るのが難しかった。

女性医師を含めて13人でネパールに着いたが、今度は荷物が受け取れない。なんとかクリアして、14人のシェルパと、100人を超えるポーターを確保し、アンナプルナ峰に。麓にベースキャンプを設け、登るにつれて第1キャンプ、第2キャンプと設営していく。

その間に隊長の宮崎英子が、各人の体調や歩調を見極め、頂上を目指すアタックメンバーを決めた。淳子は人一倍、高山に順応しやすい体質だったのだろう。隊員ふたり、シェルパふたりの一員に決まった。だが外された隊員から「荷運びのために、ここまで来たわけじゃない」と不満が噴出。

どんなスポーツでも決勝に進める選手は限られる。だが登山は点数や時間など、数字で結果が出るわけではない。審査員もいないし、誰もが命をかけている。不満もしかたない面もあった。

そこから先、淳子は、すさまじい風と寒さに耐え、膝まで埋まる雪をかき分けて、必死に頂上に立った。

下山も、仲間で大喝采というわけには、いかなかったらしい。嫌な雰囲気のまま帰国し、顔も見ずに女子登攀クラブを辞めた者もいた。

それでも帰国するなり、英子と「次はエベレスト」と約束。やはりヒマラヤ山脈で、いよいよ世界最高峰だ。

絶対に失敗すると言われても

政伸は今度も応援してくれたが、条件を出した。ひとりで留守番するのは寂しいから子供が欲しいという。そこで淳子32歳で無事に女児を出産。生後5カ月の時に、ネパール政府から登攀許可が下り、出発時には娘は3歳になっているはずだった。

それからスポンサー探しが始まった。前回も資金集めには苦労したが、エベレストと聞くと「女には絶対に無理。失敗する企画には金は出せない」とけんもほろろ。

淳子は出産を機に仕事を辞めたが、会合やスポンサーとの折衝など、出かける機会が増えた。そのたびに幼い娘を背負って、姉の家に預けに行く。家を出る準備から大仕事だったが、帰宅は当時のすさまじいラッシュアワーに巻き込まれた。

そんな中、会長の英子が結婚し、奈良で暮らすようになった。すると会員から「会長や副会長が動かないから、スポンサーもみつからない」と不満の声が上がった。

淳子は副会長として精一杯やっていたつもりだったが、家庭を口実にしたくなかった。政伸も、それを嫌って、家事や育児を懸命に分担してくれた。

幼稚園や小学校の前を通ると、自分は娘の入園式や入学式を見られるだろうかと心が痛んだ。死の意識は、常につきまとったのだ。

現実にエベレスト登山中、寝ていたテントが雪崩に巻き込まれ、まさに死を覚悟した。それでも最終的には、シェルパとふたりきりのアタックメンバーとなり、重責を背に登った。頂上に着いた時には、感動よりも「もう登らなくていい」ことが嬉しかったという。

この時は15人の隊員で喜び合ったものの、下山の際には、やはり人間関係のゴタゴタが避けられなかった。

淳子たちは気づいていなかったが、この年は国際婦人年だった。そのため世界初の女性によるエベレスト登頂は大きなニュースになり、羽田空港に報道陣が殺到。田部井淳子は期せずして、世界的な登山家になったのだ。

その後も世界の山々を登り続け、旅行会社の企画で「田部井淳子と登る〇〇」という国内外のツアーも始まった。ヒマラヤでの苦労があったからこそ、淳子はグループの雰囲気を大切にし、「登らせ上手」と評された。

政伸は定年退職後、客としてツアーに参加。淳子は文才にも恵まれ、何冊ものエッセイを出したが、その中で「大当たりだった私の夫選び」と書いた。

東日本大震災後は、故郷福島への思いから、東北の高校生たちを連れて富士山へ。内気な子には声をかけ、疲れた子は励まして、頂上に立たせた。それが彼らの自信につながった。

若い世代からは「山のおかあさん」と愛された。しかし娘や、エベレスト登頂後に生まれた息子は、母親に激しく反抗。「田部井淳子の子」として、いい子を演じるのが嫌だったという。

60代後半で乳癌を発症。もともと淳子は音楽も好きで、その後は登山を続けつつも、シャンソンを習い、華やかな衣装でリサイタルの舞台に立った。

72歳で癌性腹膜炎を発症し、余命わずかと宣告された。すると30を過ぎても悪態をついていた息子が、メールで今までの態度を詫びたという。淳子は、これを病気のおかげと捉え、77歳まで人生をまっとうしたのだった。

 

参考資料/田部井淳子著『タベイさん、頂上だよ』『人生、山あり時々谷あり』、田部井政伸著『てっぺん 我が妻・田部井淳子の生き方』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。

 

イメージ写真©fotoVoyager

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