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尾高 勇|時代を生きた女たち#125

中山道の深谷宿近くで生まれ育った少女が、完成まもない富岡製糸場におもむき、フランス人工女たちの指導を受けて、熟練工女へと成長していった。そうしてできた生糸は国際的にも高い評価を受け、粗悪品の汚名を払拭。富岡製糸場出身の仲間たちは、各地で指導者を務め、生糸の輸出は日本の発展を支えた。

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尾高 勇 ●1858~1923年
(写真:個人所蔵)

父の意志により、わずか14歳で富岡製糸場の最初の工女となった

2024年に渋沢栄一が1万円札の顔になる。尾高勇は、その姪であり、彼が創設に関わった富岡製糸場で、明治5年から工女第一号を務めた。

製糸場というと『女工哀史』のイメージが強いが、それはもっと後の時代のこと。明治初めに最新鋭の国営工場だった富岡製糸場には、士族や豪農の娘たちが多かった。

勇も知的レベルの高い農家の長女として育ち、しっかり者だったらしい。しかし彼女の人柄を示す記録は、今のところ、ごくわずかしかない。そこで今回は、なぜ勇が工女になったのか、まずは歴史的背景から探ってみよう。

幕末の騒乱の衝撃

中山道の宿場町、現在の埼玉県の深谷近くの農村が、尾高勇の生まれ故郷だ。現在は深谷ネギの産地として知られるが、昔から土地が稲作に向かず、農家は養蚕などに力を入れた。

勇の父、尾高惇忠(じゅんちゅう)は学問を好んで、畑仕事や養蚕のかたわら私塾を開き、弟子のひとりが渋沢栄一だった。惇忠より9歳下の従兄弟だが、親族内で婚姻を重ねるなど、絆が深かった。

尾高家の長女として勇が生まれたのは安政5(1858)年。ペリー来航から5年が経ち、幕府が欧米各国と貿易を始めた年だった。

その頃、ヨーロッパでは蚕の病気が蔓延していた。当時から服飾の国だったフランスでは、特に絹が不足し、日本に大量の生糸を求めた。

これに幕府が積極的に応じたため、国内で生糸が品薄になって価格が暴騰。反物の産地である京都は打撃を受けて、町中が反幕府に傾いた。

だが幕府は問題を顧みず、しまいには蚕紙(さんし)まで輸出した。蚕紙は蛾に卵を産みつけさせた紙だ。養蚕農家は毎年、これを専門業者から買い入れて、自宅の屋根裏などで蚕を育てた。

その国外流出の結果、蚕紙の国内価格まで高騰。養蚕農家も幕末の不満や混乱と無関係ではいられなくなった。

そうして惇忠の塾には、渋沢栄一をはじめ、世の中を変えようという若者たちが、しきりに出入りした。そんな熱気の中で、勇は育ったのだ。

その後、渋沢栄一は縁あって、最後の将軍、徳川慶喜に仕えた。そしてパリ万博への日本使節団の一員として、長期にわたって渡欧した。

その間に幕府が崩壊。幕府系の彰義隊と新政府軍との間で上野戦争が起こり、これに惇忠が巻き込まれた。さらに惇忠の弟、平九郎が、賊軍の汚名を着せられて命を落とした。

当時、勇は11歳。平九郎は11歳上の叔父で、かなりの美男だった。まして、ずっと尾高家に同居しており、勇にとっては歳の離れた兄のような存在だっただろう。その若き死が、大きな衝撃だったのは疑いない。

その後、惇忠は無事に帰宅したものの、勇は深い哀しみや不安の中で明治維新を迎えたのだった。

粗悪品だった日本製生糸

生糸の輸出は幕府崩壊の最中にも続いていた。だが輸出管理がおろそかで、粗悪品が混じるようになり、フランスでは日本人は嘘つきだと、ひどい悪評が立った。

この頃の製糸は座繰りといって、養蚕農家の女性の手作業だった。ぬるま湯で複数の繭を柔らかくし、それぞれの繭から極細の糸を引き出して、一本の糸により合わせる。同時に糸車をまわして巻き取っていくのだ。

一方、ヨーロッパでは、蒸気機関の動力を使った大規模な製糸が行われていた。フランスは、日本から良質な生糸を安定的に仕入れたいと、明治政府に製糸場建設の支援を申し出た。

渋沢栄一は帰国後に新政府に出仕し、この建設を命じられた。さらに栄一は統率力のある惇忠を初代場長に迎えた。ふたりとも養蚕や製糸に詳しいし、特に栄一は渡欧中に蒸気機関や大規模製糸の知識も得ていた。

惇忠は単身で、深谷の西に位置する富岡に赴任。来日したフランス人専門家、ポール・ブリュナに協力し、工場や宿舎の建設から携わった。

作業場はレンガづくりの細長い建物で、両側に大きな窓を設けた。採光をよくして、細い糸がよく見えるようにという配慮だ。ガラスはフランスから輸入したが、レンガは深谷の職人たちが焼いた。もともと深谷は屋根瓦の産地だったが、以来、レンガにも特化し、東京駅の赤レンガも深谷産だ。

富岡の作業場内には、300もの糸繰り台が並び、最低でも300人の工女が必要だった。そこで15歳から30歳までに限定して募集したところ、応募は皆無。西洋人など見たこともないために恐れられ、フランス人の飲む赤ワインが人の生き血と噂された。

惇忠は長女の勇を、自宅から連れて来て最初の工女に据えた。勇は14歳で、まだ規定年齢に達していなかったが、場長みずから娘を働かせることで、作業の安全性を示したのだ。

勇としては親の命令には逆らえない。孝行が重視されたし、父の仕事の重要性は理解できる歳だった。それに自分が頑張ることで、日本人が嘘つきという悪評を払拭し、ひいては亡き平九郎の汚名も晴らしたかっただろう。

それでも、たったひとりの工女では心細かったはずだ。当時は14歳、15歳で嫁ぐ者もおり、婚期の遅れも案じられた。周囲からは「人身御供(ひとみごくう)に出されて哀れ」と同情の目を向けられた。

ただフランス人は、会ってみれば怖くはなかった。ポール・ブリュナは妻を同伴していたし、作業の指南役として4人の熟練工女が来日。最年少は勇と同じ14歳だった。その歳で、はるばるフランスから来日した覚悟を思いやれば、勇としても弱音ははけない。

惇忠は勇を呼び水とし、村々から工女を募った。勇自身が「怖くない」と説明することで、同年代の娘たちも安心したに違いない。さらに惇忠は年齢制限を大幅に緩和し、たまたま孫の付き添いで来た祖母が、座繰りの名手だったため、工女たちの監督も兼ねて雇い入れたりもした。

なんとか2 0 0 人ほどを確保して、作業を開始できたのが明治5(1872)年10月。蒸気機関の動力で糸車をまわし、各作業台に配管された高温の蒸気で、手元の湯の温度を保ちつつ、繭の糸を手繰っていく。言葉の壁もあるし、慣れるまでは苦労が絶えず、短期間で辞めていく者も多かった。

創業からわずか半年で、富岡製の生糸はウィーン万博への出品が決まった。渋沢栄一が出かけたパリ万博の次の開催だ。勇たちの頑張りの結果、美しい生糸が仕上がり、それが高い国際的評価を得た。かつての粗悪品の汚名を、過去のものにできたのだ。

ほぼ同じ頃、富岡製糸場は皇后の行啓を仰いだ。工女たちは感激し、以降、誇りを持って作業に打ち込んで、人数も確保できるようになった。勇には肩の荷が降りる思いだっただろう。

創業からほぼ1年半後、フランス人工女たちが帰国。勇は後進の指導に当たり、3年たらずの就業で退職。もっと続けたかっただろうが、その2カ月後に母親が他界しており、看病の必要があったのかもしれない。

その前後から、全国に製糸場が建設され、各地から女性たちが富岡に研修に来た。そして技術を身につけ、地元に帰って指導役を務めた。その結果、日本中に技術が広まったのだ。

勇は19歳で、父の学問の元弟子で、銀行家の永田清三郎と結婚。孫子にも恵まれ、60代半ばで亡くなるまで、工女第一号の誇りは、胸に抱いていたに違いない。勇が最初に切り開いた生糸生産は、明治大正昭和に至るまで、日本の貿易を支え続けた。

 

参考資料/荻野勝正著『尾高惇忠 富岡製糸場の初代場長』、韮塚一三郎著『埼玉の女性たち 歴史の中の25人』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。

 

イメージ写真©John S Lander

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