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田中千代|時代を生きた女たち#127

外交官の家に生まれたが、海外赴任には置いていかれ、帰国後の家族とは馴染めない少女時代を送った。だが進歩的な夫との出会いと、自身の思い切った決断で、服飾デザイナーへの道を開き、各地に洋裁学校を開いた。

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田中千代 ●1906~1999年

写真を見ると、田中千代という古風な名前とは裏腹に、ショートヘアにモダンな服装で、今の感覚でも、かなりおしゃれな印象がある。

生まれた当時、外交官の父がパリの日本大使館に単身赴任しており、国際電報で千代と命名。当時でも古風だったようで、「どんなしゃれた名前がパリから届くか」と期待していた母は、がっかりしたという。

外交官は夫婦での活動が多く、母は生後半年の千代を、自分の実家に預けて渡仏。母方の祖父は「鉄道王」と呼ばれた大富豪で、邸宅は東京の田町から品川にかけた1万坪。千代は優しい祖母と乳母の手で育てられ、広大な庭を駆けまわって、すり傷やたんこぶの絶えない元気な子になった。

満5歳になる少し前に、父がアメリカのワシントン赴任を経て帰国。赴任中に弟妹が生まれており、家族5人の暮らしが始まったものの、母には甘えられなかった。ましてパリ生まれの弟はフランス語、ワシントン生まれの妹は英語で、千代は疎外感を覚えた。

夏は一家揃って別荘で過ごしたが、そこで千代は赤痢にかかってしまった。家族は東京に引き上げ、千代は乳母とふたりで別荘に取り残された。病み上がりには慣れた環境がよかろうと、また祖母のもとに戻された。

小学校1年生の冬から2年ほどは家族と暮らしたが、今度は父が大使としてパリに赴任し、また祖母のもとに。両親にさえ馴染みにくかったのに、今さら慣れない外国暮らしは不憫だと判断されたのだろう。ただし弟妹は同行し、いよいよ疎外感を募らせた。

祖母の家では長唄から薙刀、習字、ピアノなどの習い事が目白押し。祖母は長唄のおさらい会があると、柄や染めを細かく指示して、振袖を誂えてくれた。これがデザイナーとしての素地になったという。

4年あまりで家族は帰国し、現在の千代田区六番町の洋館で暮らした。女学校の2年生になっていた千代も同居。

だが洋館での食事は、きちんと着替えてからテーブルに着かなければ叱られた。かたわらには給仕が控え、全員が揃ってから一品ずつ皿が運ばれ、全員が食べ終わらなければ立てない。給仕の手前、会話は弾まなかった。

外交官という立場上、外国人の来客も多い。弟妹は会話に入っていけるのに、千代だけが蚊帳の外。次第に内向的な性格に変わっていった。

進歩的な夫との出会い

16歳頃から、いくつもの縁談がもたらされた。だが相手は外交官が多く、千代は首を横に振った。家族が離れ離れで暮らすのが嫌だったのだ。

見合いの末に結婚したのは、田中薫という8歳上の経済地理学者で、現在の一橋大学で講師を務めていた。

田中家は祖父の代では外交官で、祖母は鹿鳴館でダンスを踊ったハイカラ女性。夫婦で海外生活も長かった。

家風はおおらかで、実家とは食事風景が大違い。大人数で賑やかにテーブルを囲み、大皿から自分で好きなだけ取り分ける。時間も、それぞれの都合で遅れたり、先に立ったり。

そんな家庭で育った薫は、当時には珍しいほどの進歩派で、「夫婦揃って社会的に意義のある仕事をしたい」と望んでいた。そのため千代は勉強を勧められ、フランス語学校や、自由な校風で知られる文化学院に通った。

結婚1年で長男の久が生まれ、育児と学業との両立は難しかったが、家族の理解もあって、せいいっぱい頑張った。しかし在学1年ほどで久が肺炎に罹患。千代自身も肋膜炎を患って、中途退学せざるをえなかった。

千代が21歳の時、夫の3年間の海外留学が決まった。薫の祖母は自分の外遊経験もあって、久を預かるから一緒に行きなさいと勧める。家族と一緒に暮らしたかった千代には、受け入れ難い話だったが、夫の希望もあって同行した。まだ3歳の息子との別れは、後ろ髪引かれる思いだった。

薫の留学先は1ヶ所ではなく、まずはロンドン、それからオックスフォードへと移った。だが霧が濃く、千代は冬場に引いた風邪が長引き、肋膜炎が再発しないよう、気候のいい海沿いの街に、ひとりで静養に行った。

そこで間借りした家の娘が、シェイクスピア専門の劇団員だった。その芝居を見ているうちに、千代は舞台衣装や服飾史に興味を持った。それからは小さな服飾学校の聴講生になったり、春にロンドンに戻ってからは図書館で服飾史について調べたり。

その後、薫はパリを経てベルリンへ。ドイツ語のできない千代は、単身パリに残った。だがファッションの都の敷居は高く、具体的な勉強には手が届かなかったらしい。そのため藤田嗣治など日本人画家たちと交流し、一流オートクチュールのショーウィンドーや、ヴォーグなどのファッション誌を眺めて暮らした。夫と別行動をしてまで滞在しているのに、遊んでいるような状況には、焦りが大きかったことだろう。

ある日、ヴォーグ誌に載っていた美しいオペラ衣装に、目が釘付けになった。作者はハスハイエというデザイナーで、スイスのチューリッヒで服飾デザインの学校を開いていた。

千代は住所を調べ、思い切って教えを請う手紙を出した。すると数日後、ハスハイエ自身から国際電話がかかってきた。自分のもとで勉強したければ、明後日の夜行列車に乗れという。千代は即座に「行きます」と答え、すぐにパリの下宿を引き払って、チューリッヒへ。夫には事後報告になったが、こころよく認めてもらえた。

この思い切った決断が、服飾デザイナーへの扉を開いた。ハスハイエは日本から来た勇気ある女性を歓迎し、デザインの基本を指導してくれたのだ。

9ヶ月が過ぎた頃、薫がアメリカに移ることになり、今度は同行を決意。するとハスハイエは出発までの短期間に、ドイツ各地に型紙製図などの具体的な手法を、学ばせに行かせてくれた。さらにニューヨークの既製服の学校も紹介してくれた。これによって千代は感覚重視のフランス式ではなく、採寸重視のドイツ式や、経済重視のアメリカ式の服づくりを身につけた。

3年に及ぶ留学を終えた昭和6年、薫は今の神戸大学で助教授に就任。夫婦は6歳の久を引き取り、手伝いを雇って神戸市内に住まいを定めた。

洋服といえば裾の長いドレスという時代が終わり、簡便なワンピースが求められていた。ちょうど大手布地メーカーが大阪の心斎橋に店舗を開き、ここで千代は仕事を得た。新製品の布を販売する際に、顧客の好みや体型に合わせて裁断する役目だった。

だが縫製ができるのはテイラーの職人くらいで、縫い手がいない。和裁のように自分で縫いたいから教えてと頼まれて、千代は自宅で6人の希望者に教えた。これが好評で、それぞれが姉妹や友人を連れてきて、生徒は急増。朝、9時から始めなければ、その日の作業が終わらないため、朝食を急ぐと、さすがに薫から文句が出た。

戦争中はおしゃれが敵視されたが、戦後は洋装が急速に進んで、千代は芦屋に本格的な洋裁学校を開いた。これが全国主要都市の田中千代学園へと発展していく。

その一方で、女性誌に婦人服や子供服の解説を書き、何度も海外にも出かけ、パリのファッション界との架け橋まで務めた。パイオニアだけに千代に代わる人材がおらず、仕事が集中した。後に久から「ママは外にばかりいた」と言われて、心が痛かったという。

その間に、網膜剥離を起こして片目を失明。それでも昭和の良子皇后のデザイナーを務めるなど、晩年まで向上心を保ち、努力を続けた。まさに夫が望んだ「社会的に意義のある仕事」を実現したのだった。

 

参考資料/西村勝著『田中千代 日本最初のデザイナー物語』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。

 

イメージ写真©Rawpixel.com

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