新商品

新商品 5/23新着

ネイルポリッシュ
クリアフルセット・トライアル

特集

  • 夏本番!うるおいに満ちた、すこやかな肌を夏の快適スキンケア特集
  • 美白×UVケア あなたのための提案カルテ
読み物

読み物-日々をここちよく-

今月の新発売アイテム&おすすめポイント【2022年6月号】
旅するネイルアート#1|憧れの街は、ネイルで楽しむ~Casablanca Nagano NewYork Paris
旅するネイルアート#2|憧れの街は、ネイルで楽しむ~Marrakech India Waikiki Netherlands Firenze Kyoto
【パーソナルカラー別】涼しげカラーで作る初夏メイク
  • コラム&エッセイ

253 view

エディット・ピアフ|時代を生きた女たち#128

恵まれぬ生い立ちのみならず、才能を見出してくれた恩人は強盗に殺され、最愛の恋人は航空機事故で他界。ピアフ自身は4度もの交通事故に遭い、怪我の痛み止めから薬物中毒に。それによってからだはむしばまれていった。そんな不幸を引き寄せたかのような人生は、歌で昇華され、聴く人の心を打った。

この記事をお気に入りに追加

エディット・ピアフ ●1915年~1963年

壮絶な人生を歌に捧げたシャンソン界最大の歌姫

シャンソンに詳しくなくても、「ばら色の人生」こと「ラヴィアンローズ」や、越路吹雪が歌った「愛の讃歌」などは、聴けば「ああ、あの曲」と、誰にも馴染みがあるだろう。その両方の作詞者であり、オリジナル版を歌ったのがエディット・ピアフだった。

誕生は1915年のパリの下町で、本名はエディット・J・ガッシオン。父は大道芸の道化師で、母はストリートシンガー。エディットは歌声を母から、147センチという身長を、小柄だった父から受け継いだのだ。

ちょうど第一次世界大戦の最中で、父は徴兵され、まだ20歳だった母は、実家に赤ん坊を置いて立ち去った。そのためエディットは「母に捨てられた」という思いを抱いて育った。

母方の祖母は、ろくに赤ん坊の面倒をみず、兵役から戻った父は、自分の実家に預け直した。父方の祖母は娼家を営んでおり、エディットは気のいい娼婦たちに可愛がられて育った。

7歳になると、父は娘の育つ環境が気になり、みずから引き取って、大道芸の旅に連れ歩いた。見物客の投げ銭が多ければ、安宿に泊まり、稼ぎが少なければ野宿もした。

10歳の冬、父が病気になり、その日暮らしは行き詰まった。そのためエディットは街角でフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を思い切って歌った。それが知っている唯一の歌だったのだ。すると喝采を浴び、投げ銭は父の曲芸を超えた。

娘の働きで稼ぎが増えると、父は次々と愛人を変えた。そしてエディットが15歳の時に腹違いの妹が誕生。その世話まで押し付けられたのか、父のもとを去った。

パリの歓楽街でストリートシンガーになったが、まもなく運送業の配達係をしていた同年代の少年と同棲。17歳で女児を出産したが、生後2年で髄膜炎により短い命を閉じた。

これが原因で少年とは別れ、次は不良仲間と付き合って、からだを売れと強要された。しかし幼い頃から、娼婦たちの悲惨な末路を知っていただけに、かたくなに拒んだ結果、何年もストーカーとして付きまとわれた。

19歳の秋に転機が訪れた。凱旋門近くで歌っていたところ、ルプレと名乗る紳士が近づいてきて「私の店に来なさい」と声をかけてきたのだ。指定された日に行ってみると、そこは高級ナイトクラブだった。この時に「小さな雀」という意味の「ラ・モーム・ピアフ」という芸名をもらった。

エディットは初めてスポットライトを浴びて歌った。客たちは小さなからだから発せられる意外な歌声に聴き入り、終わったときには拍手と「ブラボー」の大歓声。一夜にして人生が変わり、レコードデビューも果たした。

だが2カ月後、思いがけない事件が起きた。不良少年たちがルプレの家に強盗に押し入り、抵抗したルプレが、拳銃で射殺されてしまったのだ。

この少年たちと面識があったため、エディットに嫌疑がかかった。警察で厳しい尋問を受けたが、結局は無関係で釈放。だが事件は新聞沙汰になり、歌手としての未来は閉ざされた。

その後、レイモン・アッソーという作詞家と出会った。ほどなくして恋仲になり、彼の指導で、立ち振る舞いから話し方まで洗練性を身につけた。芸名をエディット・ピアフと改めさせたのもアッソーだった。そして一流ホールの舞台にまで立たせてくれた。22歳で、今度こそシャンソン歌手としての輝かしい地位を確立したのだ。

だがアッソーが兵役に行くと、エディットは、ほかの恋に奔った。何より寂しさを恐れ、一人ではいられなかったのだ。以来、数知れぬ恋愛遍歴を重ねていく。特に美男の歌手志望や俳優の卵、若手作曲家などと出会うと、才能を開花させたくて恋に落ちた。

そんな一人だったシャンソン歌手、イブ・モンタンは後年「エディット・ピアフは愛を見つけ、愛を失うときに、より素晴らしいシャンソンを歌えた」と語った。彼との恋愛によってできた曲が「ばら色の人生」だ。男女の愛を切々と歌うからこそ、異性へのときめきや切なさが常に必要だったのだ。

今までにいなかったタイプ

33歳でアメリカに進出。ニューヨークの劇場でのリサイタルは、当初1週間の契約だったが、大絶賛を受け、21週間にまで延長された。

その間にマルセル・セルダンというボクサーと出会った。フランス領だった北アフリカの出身で、ラテン系の目鼻立ちに浅黒い肌を持ち、今までの音楽関係者とは、異なるタイプだった。リングでは死闘を繰り広げるのに、普段は極めて穏やかな人柄で、たがいに夢中になった。この頃にできたのが「愛の讃歌」だ。

マルセルには妻子がいたが、エディットは彼の離婚を望まなかった。自身が不幸な生い立ちだったせいもあって、ほかの女性や子どもを突き落とせなかったのだ。

当時、エディットもマルセルも、パリとニューヨークを行き来する仕事が重なり、頻繁に手紙や国際電話をやりとりした。船で大西洋を渡るというマルセルに、エディットは「早く会いたいから飛行機にして」とせがみ、優しい男は、それに応じた。

当時の飛行機は給油のため、アゾレス諸島という大西洋の離島に立ち寄った。マルセルの乗った機体は、この諸島の山中に墜落し、全員が死亡。

皮肉にも、この不幸がエディットの人気を、いっそう高めた。だが最愛の人を失って、暮らしぶりは徐々に崩れていく。怪しげな交霊術を信じ、深酒に溺れ、睡眠薬に頼った。

そんなときに交通事故に遭い、入院先の病院で、痛み止めのモルヒネ注射を受けた。精神的に安定していれば、問題はなかっただろうが、これが中毒への引き金になってしまった。

6年前、エディットの母親が、薬物中毒の末に他界した。有名になった娘から薬代をせびり続け、行き倒れのようにして亡くなったのだ。それを知っていただけに、エディットは専門病院に入り、壮絶な苦しみを経て、いったんは薬を絶った。

だが退院後、ふたたび交通事故に遭い、痛み止めにすがってしまった。エディットは生涯4度もの交通事故に遭っている。当時は飲酒運転が厳しく制限されておらず、そのための事故かもしれないが、彼女自身が不幸を招いた印象は拭えない。しだいに薬物によってからだはむしばまれていき、内臓に重い疾患を抱え、40代で老女のようだったという。

エディットは物欲とは無縁だったが、困窮している人を見ると助けたくなり、彼らを支えるために莫大な収入を費やした。たとえ借金をしても、いちどステージに立てば返済できた。しかし病身で歌うには、一時的でも元気を取り戻さねばならず、そのためにも薬物が手放せなかった。

人生の終盤に、歌手志望のギリシア人青年、テオ・サラポと出会った。エディットは幾多の恋をしたが、一生をかけて愛したのはボクサーのマルセルだけであり、一生をかけて待っていたのがテオだと語った。だが20歳も下で、エディットは年齢差を悩んだ末に、46 歳の10月9日に結婚に至った。

死は、それから1年後の10月10日。葬送には4万人ものファンが集まった。彼女の生き方は道徳的ではなかったが、純粋さが愛されたのだ。彼女自身、もういちど人生をやり直すとしても、同じ人生がいいと語った。  テオの結婚は遺産目当てと噂されたが、現実には借金しか残されず、それもテオが歌手としての収入で、数年がかりで完済したのだった。

参考資料/エディット・ピアフ著『わが愛の讃歌 エディット・ピアフ自伝』、山口路子著『エディット・ピアフという生き方』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。
https://note.com/30miles

 

イメージ写真©Julien FROMENTIN

お買いものはこちら