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マリア・モンテッソーリ|時代を生きた女たち#129

将棋の藤井聡太氏が、モンテッソーリ教育の幼稚園に通ったことが注目されている。ほかにもアンネ・フランクや、巨大IT産業の創業者なども輩出している教育法だ。日本では小学校受験の準備と見なされたり、独特な教具にのみ注目されがちだが、創始者のマリア・モンテッソーリが、最初に目指したのは障がい児教育だった。

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マリア・モンテッソーリ ●1870年~1952年

ときに天才をも育てる教育メソッドの創始者

ブーツ形のイタリア半島に、実質的な統一国家ができたのは1870年。マリア・モンテッソーリが生まれた年だ。それまでは王国とローマ教皇領、貴族領などが混在していたのだ。

日本の暦では明治3年で、近代国家としてスタートしたのは日本の方が早い。イタリアはヨーロッパの中で立ち遅れており、人々は貧しく、子どもでも働かされ、識字率も低かった。

マリアが生まれたのはブーツのふくらはぎ辺り。父のアレッサンドロは中央から赴任してきた財務官僚で、母のレニルデは地元の地主の令嬢。当時の女性としては珍しく読書好きで、高い教養の持ち主だった。

父が中央官庁に異動になり、一人娘のマリアは5歳からローマで育った。10歳頃の写真があるが、意志の強そうなまなざしの美少女だ。

学校の成績はきわめて優秀で、リーダー的存在。特に算数が得意で、中学と高校は国立の理数系に進んだ。当時の女子には珍しい分野で、父は猛反対したが、母親が味方してくれた。

将来的には医者になりたかったが、まだイタリアには女性医師はいなかった。そのため父はもちろん、志望先の医学部教授も難色を示した。それでも決意は揺るがなかった。

実際に大学に入ってみると、医学部初の女子学生には、居心地は悪かった。通りすがりの男子学生に、口笛を吹かれたり、揶揄されたり。解剖実習は男子との同席は許されず、たった一人で遺体にメスを入れる恐怖から、医者への夢を諦めかけもした。

それでも頑張り通し、最終学年で研究発表することになると、父がひそかに聴講に来た。このときアレッサンドロは初めて娘の優秀さを認め、長年に及ぶ父娘の対立を乗り越えた。

20代半ばでイタリア初の女性医学博士になり、大学病院に就職。その一方でドイツで開かれた国際女性会議に派遣され、女性の社会的地位などについてスピーチした。これが圧倒的な支持を得て、一躍、国際的な時の人に。以降、女性の地位向上にも尽力した。

秘密裏に未婚の母となる

大学病院では、知的障がいのある子どもたちに携わった。当時、彼らは親からも社会からも見捨てられ、心を病んだ大人の患者たちと一緒に収容されていた。中には凶暴な患者もおり、子どもたちは怯えて暮らしていた。

食事が終わると子どもたちは床に落ちたパンくずを拾った。それは卑しい行為と見なされたが、何の玩具もない中で遊んでいるのだとマリアは気づいた。

そこで障がい児教育の論文を徹底的に調べ、フランスで開発された教具を用いてみた。案の定、子どもたちは熱中。マリアは教具に改良を重ね、木製の立体アルファベットを作った。すると子どもたちは何度も触り、とうとう8歳の少年や少女たちが、文字を書けるようになったのだ。一般の子どもの識字率さえ低い中、これは奇跡的と評価され、世界中の注目を集めた。

だが、そんな絶頂期に、マリアは、すべての仕事を辞めた。30歳を超えた頃のことで、今では結婚問題や出産の影響と見なされているが、当時、離職の理由は秘された。

マリアは病院の同僚、モンテサーノと恋をして、結婚を望んだのだ。しかし両家の両親が結婚に反対。特にモンテサーノ側は、マリアのような立派な嫁は不要だったのだろう。また当時は結婚すれば、女性は家庭に入るのが当然であり、マリアの両親も娘の輝かしい名声を惜しんだのかもしれない。

だがマリアは妊娠していた。カトリックでは中絶は認められないし、未婚の母など非道徳的と非難される。生まれたのは男児で、マリオと名づけられた。そして双方合意の上、生まれてすぐ地方に里子に出された。

マリアもモンテサーノも生涯、結婚はしないと誓い合ったが、結局、彼は別の女性と家庭を持った。マリアは仕事を失い、わが子も手放し、さらに愛した男性にも裏切られて、何重もの苦しみを負ったのだ。

医学から教育への転身

その後、ローマ市内の治安の悪い地域で、大規模なアパートのリノベーションが行われた。そこは長い間、空き家になっていたため、犯罪者などが勝手に住みついていた。

改装後は仕事を持つ夫婦たちに提供されたが、就学前の子どもの居場所がなく、アパートの廊下は彼らの無法地帯になった。そこで子どもの面倒をみる女性が求められ、マリアが応じた。

ただし医学界からは厳しい批判を受けた。そんな仕事は、医師としての尊厳を汚すというのだ。

だがマリアは、リベラルな上流階級に呼びかけて寄付を募り、「子どもの家」を開いた。テーブルや椅子や棚を備え、離職前に使った教具類も揃えて、障がいのない子どもたちに用いた。

すると子どもたちは興味を示し、各自が教具を選んで熱心に遊び始めた。マリアが片づける棚を教えると、遊んだ後に、きちんと片づけもした。その延長として、料理や花壇の手入れを教えると、これも嬉々として行った。

彼らは、ままごと遊びには見向きもしなかった。本物の皿やコップで、ランチの配膳をしているからだ。落として割るかもしれないという緊張感と、無事に運べた達成感は、ままごとの魅力を、はるかに超えていた。

無法者だった子どもたちは、口うるさく注意しなくても、行儀よく変身した。評判を聞きつけて取材に来た記者や見学者たちは、その効果に驚嘆した。

マリアは文字教育は就学後と考えていたが、読み書きのできない母親たちから、ぜひと請われて着手。サンドペーパーや色紙でアルファベットを切り抜き、独自の教具にした。

子どもたちは、しきりに触っては、単語のスペル通りに並べたりしていたが、ある日、煙突の絵を描いていた子が「字が書けるよ」と、イタリア語の「煙突」という単語を書いた。すると、ほかの幼い子どもたちも「自分も書ける」と、さまざまな言葉を綴り始めた。

マリアは障がい児のときとは異なり、書くことまで教えていなかった。だが子どもたちは大人が文字を書くのを見て、アルファベットの教具と、書くという行為とが自然に結びついたのだ。

その後は文字に限らず、新しく入ってきた子が、前からいる子の行動を見て学んだ。年齢でクラス分けしないからこそ、可能だったことだ。

モンテッソーリ教育の指導者を育てる仕組みもでき、「子どもの家」は各地に増えていった。母親たちは安心して子どもを預けて働けるようになり、女性の社会進出にも役立った。

またもやマリアは世界中から注目され、アメリカなど各国から招待を受けて講演に出向いた。

一方、マリオは7歳からフィレンツェ近くの寄宿学校で暮らした。ときおりマリアが会いに来たが、それが誰かは明かされなかった。

その間、マリアは夏毎にボローニャの修道院に2週間、滞在して祈った。わが子を手放して人の子を育てる状況に、複雑な思いがあったのだろう。

マリオが14歳のときに、初めて母として迎えに行った。待ちに待った日だったのは疑いない。今さら出生の秘密が蒸し返されることはなかった。

第一次世界大戦中はマリオの徴兵を避けて、母子でスペインに移住。第二次世界大戦中にはムッソリーニの独裁制に背を向けて、インドで過ごした。その後も各地にモンテッソーリ教育を広めつつ、81歳で亡くなるまで、マリオが母の手助けを続けたのだった。

参考資料/リタ・クレーマー著『マリア・モンテッソーリ』、H・ハイラント著、平野智美・井出麻里子共訳『マリア・モンテッソーリ』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。
https://note.com/30miles

 

イメージ写真©Mariya Chichina

 

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