冬にしっかり分厚い靴下を履いてから、ブーツを履くのは楽しい。
とても強い気持ちになれる。
冷たい地面から冷気が伝わってくるのを、靴底が守ってくれるのを感じる。
白い息を吐きながらいつまででも歩けそうな気がする。
そしてその喜びは、夏に最初にサンダルを履く日と対になっている。
私は骨折していたので、去年の夏サンダルを履けなかった。ほとんどのとき、まだリハビリシューズで過ごしていた。
それでも悔しくて海でビーチサンダルをちょっとの間だけ履き、短い距離ではあったが浜辺を歩いていたら、足が喜んでいるような気がした。
太陽の光や砂が、足に「おかえり」と言っているような、そんな感覚だった。
夏になって浴衣に袖を通すときのために一年を生きている、というようなことを書いていたのは太宰治だっただろうか。私にとってそれは裸足でサンダルになる日と同じだ。
あと何回、夏を迎えられるのだろう。そして何回サンダルに足を乗せられるのだろう。
いつかミラノで買った、安くていい感じのサンダルを、履けずにただ磨いた去年。
冬のあいだ、分厚いいろいろなものに包まれて守られた足が野生を取り戻す瞬間を、一回逃してしまったのが残念でならない。
心地よい靴やサンダルは、人生を豊かにしてくれる。
十代や二十代の頃みたいに、ひたすらヒールの高い靴や、ちょっとぐらい合わなくてもおしゃれだからと履いていたブーツや、華奢すぎて足がはみ出すようなサンダルは怖くてもう履けない。
でも、足に合う履きものに巡り合ったら、その喜びは見た目だけじゃなくて体全体に響きわたる。
リハビリのときに履いていたサンダルはもはや命綱みたいな感じだった。
サポーターは取れないけれどとにかく歩き始めなくちゃ、という気分を包んでくれたそのサンダルを見るたび、感謝の気持ちが溢れてくる。
これからは、こんなふうに自分と寄り添ってくれるものを選んでいこうと心から思った。見た目が悪すぎたらもちろんいやだけれど、心地よさに包まれていたら、外を歩いていたって家になる。
たとえば東京の裏道を歩いていても、ヨーロッパで履くような歩きやすい靴を履くと、ミラノの街を歩くようにさっそうとした気持ちになる。スリに目をつけられないような歩き方さえ思い出せる。
全ての持ちものは相棒だなあ、と思う。
PROFILE
よしもとばなな:1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著作は30カ国以上で翻訳出版されている。近著に『ミトンとふびん』(新潮社)などがある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
イラスト/牛久保雅美