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橋田壽賀子|時代を生きた女たち#130

最高視聴率62.9 パーセントという驚異的な数字をたたき出した朝ドラ「おしん」。 通算500 話を超え、断続的ながらも30 年近く愛された「渡る世間は鬼ばかり」。 そのほかにも名脚本家として、数多くのホームドラマを描いて、長く人気を博した。 甘えられない父と過干渉な母のもと、一人っ子で育ったからこそ、大家族の人間模様を描いた。

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橋田壽賀子 ●1925 〜 2021年

映画や少女小説を経て、テレビドラマで開花した脚本家

橋田壽賀子の両親は、日本統治下にあった戦前の朝鮮半島に渡り、父は鉱山を経営。母はソウルの一等地で土産物店を切り盛りしていた。壽賀子は3歳頃の写真で、白いレースのワンピースに、Tストラップのエナメル靴を履いており、裕福な暮らしぶりだ。

一人っ子で母には溺愛されたが、父とは距離があった。留守がちで、子どもと顔を合わせても話もせず、壽賀子が甘えられる相手ではなかった。

まして両親は不仲で別居。壽賀子は東京の親戚に預けられた。子どものいなかった伯母に可愛がられ、地元の小学校にも馴染んだ頃、母がソウルから迎えに来て、3人家族の同居に戻った。

しかし4年生になると、母と壽賀子だけ日本に帰国。今度は別の親戚を頼って、大阪の堺で暮らした。母娘の生計は父が支え、ときおり訪ねて来たものの、よそよそしさは変わらなかった。実は父には、別の女性との家が、ソウルにあったのだ。

関西弁ができない壽賀子は、学校で仲間外れにされた。母は心配して、近所の同級生たちを家に呼び、菓子でもてなして土産にノートを配った。しかし壽賀子にとっては、別に親しいわけでもなく、気づまりなばかりだった。

女学校時代には遠足に行った先に、母から電報が届いた。何事かと開いてみると「ヤキブタタベルナ」という。その日、急に気温が高くなったため、母は弁当に入れた焼豚が傷まないか、心配でたまらなくなったのだ。

そんな過干渉が重く、壽賀子は母から離れたいと、内緒で日本女子大を受験して合格。母は猛反対したが、父と東京の伯母が味方してくれた。上京前夜、母は娘の新しい寝巻を縫いながら、1人で泣いていたという。

日本女子大在学中、20歳で終戦を迎え、さらに家の反対を押し切って、早稲田大学へ進学。歌舞伎に興味を持って演劇を専攻した。だが仕送りを止められて、暮らしが行き詰まった。

その頃、松竹映画が脚本部員を募集。戦後、映画は大衆娯楽として人気を博し、人材不足だったのだ。壽賀子は「給料をもらって脚本の勉強ができる」と応募。千人あまりから残ったのは6人で、女性は壽賀子1人。そのため注目を浴び、雑誌の取材などを受けた。

しかし映画は完全な男社会。「女は脚本なんか書けない」と決めつけられ、いつまでも下調べやベテラン脚本家のサポート止まり。

それでも松竹の脚本部という肩書きが生きて、「少女」という雑誌から小説連載の依頼を受けた。気楽に書いたところ「わかりやすい」と好評に。

そんな中、母が子宮がんで他界した。病室を片付けていると、布団の下から壽賀子のインタビュー記事や、手がけた映画のポスターが出てきた。母は看護師たちに見せて、娘の自慢をしていたという。それを聞いたときに、壽賀子は初めて声をあげて泣いた。

テレビの普及により、映画人気は陰り始めた。壽賀子は事務職への異動を命じられ、入社10年で退社。すでに34歳で、仕事は「少女」の小説連載だけ。先行きは不安ばかりだった。

一方で民放各社が開局し、ドラマの需要が高まっていた。この波に乗ろうと、壽賀子は脚本を書いては各局に持ち込んだ。だがライバルが多く、またテレビ局の社員は大忙しで、持ち込み原稿など読む暇がない。

それでも苦節2年で、ようやく作品が取り上げられ、人気番組「七人の刑事」の執筆陣にも食い込めた。

そのディレクターが石井ふく子を紹介してくれた。石井はTBS開局早々から「東芝日曜劇場」を担当し、人気番組に押し上げた辣腕プロデューサー。壽賀子には「好きに書いてらっしゃい」と言うだけで、駆け出しの脚本家など歯牙にもかけない。

だが夫婦を描いた脚本を渡すと「日曜劇場」での採用を即断。ただしセリフを厳しく直された。映画では大仰な言いまわしが好まれたが、テレビでは日常的な言葉づかいが大事だったのだ。これによって壽賀子はテレビドラマの脚本家として成長した。

石井に連れて行かれた企画会議で、岩崎嘉一というTBSの社員に出会った。嘉一は「ベン・ケーシー」や「奥様は魔女」など、海外ドラマを放送して好評を博していた。その後、女優の結婚式や、局のエレベーターなどで、偶然の再会が続いた。

先に恋したのは壽賀子の方だった。石井に相談すると「結婚したい」という意思を伝えてくれた。嘉一の方もまんざらではなく、壽賀子41歳、嘉一36歳で結婚に至った。

ただし亭主関白で「自分の前では脚本を書くな」と厳命。壽賀子は夫が出勤するのを待って、食卓で原稿用紙を広げ、食事の支度をしながら書いた。

嘉一はマザコンでもあった。姑は女手ひとつで5人の子を育てた人で、何かと嫁の言動が気に入らない。小姑もいる。一人っ子で育った壽賀子は、この嫁姑問題に驚き、「ドラマは家庭にある」と痛感した。

仕事ではNHKの朝ドラや大河ドラマも経験し、特に昭和56年の「おんな太閤記」がヒット。この勢いに乗って「おしん」に踏み出した。

終戦直後、壽賀子は山形県の最上川流域に疎開したことがあった。そのとき高齢の女性から「昔は、この辺の娘たちは年端もいかないうちから、筏(いかだ)で下流の町に奉公に行った」と聞き、いつか書きたかった。だが石井も夫も「暗い」と賛成しなかったのだ。

朝ドラで企画が通り、NHKの職員が山形県庁の上層部に挨拶に行くと「そんな貧乏話は県のイメージを悪くする」と、渋い顔をされたという。

それでも、おしんが筏で最上川を下るシーンでは、地元の全面的な協力を得て撮影。ロケが終了したときには、壽賀子もスタッフも地元の人々も、幼いおしんに肩入れして落涙。感動は視聴者にも伝わった。

その後、世界各地で放送され、イラン、タイ、中国でも8割もの視聴率を得た。

嘉一は55 歳でTBSを定年退職し、フリーのプロデューサーとして活躍し始めた。だが4年後に肺がんが発覚し、60歳で世を去った。結婚生活は23年。すでに壽賀子は父も亡くしており、たった1人の家族を失ったのだ。

生前、嘉一は株に投資し、驚いたことに2億7千万円もの遺産が残された。これを基金に、壽賀子は放送界の人材育成に充てたかったが、財団法人を立ち上げるには充分でなかった。

そこでTBSから借金をし、担保として連続ドラマの執筆を約束。それが「渡る世間は鬼ばかり」だった。大家族の物語にすることで、各登場人物が歳を重ねるごとに、新しいドラマが展開できる。題材は無尽蔵だった。

壽賀子は60代後半から80代なかばまで、「渡鬼」を書いた。同時に「笑っていいとも!」などバラエティ番組にも出演。その後も「渡鬼」は1〜2年に1度は特別編が作られ続けた。

それでもしだいに時代はミステリー全盛となり、ホームドラマは顧みられなくなっていった。晩年の壽賀子は「もう私の時代ではない」と嘆きつつも「依頼があれば書く」という意欲は保ち続けた。

ただ家族のない身としては、老いて周囲に手間をかけさせたくないと、『安楽死で死なせて下さい』という本を出版し、大きな反響を呼んだ。

望みは叶わなかったが、亡くなったのは去年4月。プライベートでも親しかった泉ピン子や医師、友人ら10人が最期を看取った。

壽賀子が設立した橋田文化財団は、放送文化に貢献した番組や人物に、毎年、橋田賞を贈っており、近年では「エール」や「なつぞら」といったドラマのほかに、「ブラタモリ」や「ポツンと一軒家」なども受賞している。

参考資料/橋田壽賀子著『人生ムダなことはひとつもなかった』、『安楽死で死なせて下さい』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。
https://note.com/30miles

 

イメージ写真:photolibrary

 

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