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小林カツ代|時代を生きた女たち#132

大阪の商家の「こいさん」が、料理に興味がないままで結婚し、料理が下手だったからこそ、上手に作る面白さに目覚めた。文章も巧みで、料理エッセイや働く女性の生き方本まで執筆。早く安く簡単にできる料理が人気を博したが、批判もつきまとった。

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小林カツ代 ●1937〜2014年

早く安く簡単にできる家庭料理を、初めて提唱した料理研究家

カツ代が生まれたのは大阪市西区北堀江。今は大阪市立中央図書館がある場所で、市街地の真っ只中だ。

父の徳太郎は、小学校を出て間もなく、船場の商家に奉公に出た。懸命な働きぶりで独立し、北堀江でバターや小麦粉、ベーキングパウダーなど製菓材料の卸問屋を開いたのだ。当時としては、かなりハイカラな商売だ。

徳太郎は営業にもまわる「旦那(だん)さん」で、母の笑は店を切り盛りする「ご寮(りょん)さん」。末娘の「こいさん」カツ代は、内気で引っ込み思案な少女だった。

4歳で太平洋戦争に突入。7歳で大阪の大空襲に巻き込まれたが、なんとか家族は無事に終戦を迎えた。

戦後、徳太郎は道頓堀川にかかる日本橋(にっぽんばし)の北詰に店を移した。ミナミの繁華街の近くで、戦後の復興期、食品を扱う商売は上昇気流に乗った。

映画好きだった母は、店で働く人の手前、「ちょっと買い物」と称してカツ代を誘い、割烹着のまま店を抜け出しては映画館へ。その後は行きつけの喫茶店で、評判の「ビフカツサンド」を食べるのが常だった。

一方、父は娘を「めし屋」に連れて行った。大衆食堂ではあるが、食い道楽の大阪では不味くては客が来ない。まして母は料理上手。まだまだ戦後の食生活が貧しい時代ながらも、カツ代の舌は肥えていった。

中学高校時代からは漫画に凝り、帝塚山学院の短大と専攻科に進学。授業のかたわら、絵画教室に通って漫画を描き、休日はダンスパーティ、夜はジャズ喫茶と、楽しく遊びまくった。

そんなころに「彼」と出会った。見るからに「かっこいいダンディ」で、東京の超一流大学を出て、製薬会社の研究員として大阪に赴任していた。

カツ代は帝塚山の専攻科を出てすぐに結婚。内気だった少女は、すっかり自己主張できるようになっていた。

夫は転勤族で、新婚生活は名古屋で始まった。ただカツ代は、それまで料理に興味がなかった。台所で母の手伝いをしたこともない。

まずは味噌汁を作ろうと、塩漬けワカメを水から煮て味噌を投入。ワカメは膨れ上がり、ただしょっぱいだけの汁ができた。夫は笑って許してくれたが、カツ代は不味いものを食べたことがなく、自分自身が許せなかった。

それからは母に遠距離電話の毎日。何でも作り方を教えてもらい、メモをとった。これがカツ代のレシピの始まりで、料理ができなかったからこそ、おいしく作れる楽しさを知った。

1年もすると、家で夫の帰りを待つ暮らしが退屈になった。大阪の商家では「ご寮人さん」も店で働くのが当然だった。だが家庭の主婦には働き口などない時代。とにかく料理に勤(いそし)んだ。

その後も夫の転勤で、福岡を経て神戸へ。三宮駅近くの「グリルミヤコ」には、よく夫婦で食事に行った。すでに料理の腕は上がっていたが、コックコート姿の主人がハンバーグを作る手順を、カウンターから身を乗り出すようにして見た。

あるとき毎日放送の午後の人気番組宛に「ワイドショーの中で、主婦が楽しく料理でも作ったら?」と投書した。これが女性ディレクターの目に留まり「あなたがやってみませんか」と勧められた。

またもや夫の転勤で東京行きが決まっており、一回だけのつもりで引き受けた。夫も「やってみたら?」と面白がってくれた。

生放送で披露したのは「庶民のシューマイ」。ひき肉に玉ネギのみじん切りと片栗粉を入れ、塩と砂糖で味付けして、皮で手早く包み、蒸して辛子じょう油で食べる。面倒なはずの焼売が、楽しい語り口で簡単にできていく。視聴者の目は釘づけになった。

それきりカツ代は東京へ。やはり絵に興味があって、日本初の漫画学校に通い始めた。ただ家事を怠らないのが夫との約束で、夕方、都心の学校から1時間半もかけて帰宅し、それから夫が帰るまでに夕食の支度。そのため手早くできる料理を身につけた。

テレビ局が用意した新企画

しかし漫画学校が放漫経営で倒産。カツ代は仲間たちと「東京漫画研究所」を立ち上げる一方で、『ミセス漫画学校へ行く』というエッセイを執筆し、出版が決まった。その中でテレビ出演の話を書いたため、そのときの写真がないかと毎日放送に問い合わせた。

すると「スグコラレタシ」という電報が届いた。あのワイドショーでの料理が大好評で、ディレクターはレギュラー化しようと、カツ代を必死で探していたのだった。

行ってみると、新企画が用意されていた。カツ代が毎回、大阪の有名レストランでおすすめを食し、ざっと調理法を見せてもらって、スタジオで再現するという。ただし週2日は、東京から通わなければならない。

だが「グリルミヤコ」でカウンターから乗り出して作り方を見た身としては、テレビ局の手配で、それができるのだから断る手はない。週2日の大阪行きには、さすがに夫は微妙だったが、もう断れない状況だった。

このころカツ代の舌は、何と何を合わせれば、こんな味になるという予測がつくようになっており、再現はお手のもの。それも缶詰のデミグラスソースなど、既成のものも活用して、いとも簡単に作ってみせた。

これが受けて東京でも放送され、いよいよ多忙になった。そんな中、33歳でまりこが生まれ、翌年には健太郎が誕生。育児の忙しさと折り合いをつけつつ、だれでも簡単に早く安くできる家庭料理にこだわったが、手抜きという批判はつきまとった。

料理エッセイやレシピ本を出し、自宅で料理教室も開いた。毎日がてんてこまいだったが、夫は家事に手を貸してはくれなかった。彼としては、妻が勝手に仕事を増やしているだけで、手伝う筋合いはなかったのだろう。

健太郎が9歳になった年に『働く女性のキッチンライフ』という本を出版し、10万部のヒットになった。

母親が手間暇かけた手作りこそが尊いという風潮は、今でもある。だが疲れ切って、不機嫌に食卓に向かうのでは、どんな料理でもおいしくない。カツ代は省けるところは省けと、自著の中で提唱したのだ。

子どもたちが高校生になったころには、専用の仕事場を持ち、何人ものスタッフを抱えていたが、どうしてもストレスが溜まったのだろう。一時、すべての仕事をストップし、一人で2カ月間も渡米した。

アメリカ人から「なぜ日本の女性は、結婚すると仕事を辞めるのか」と質問されて、とっさに「夫の世話をしなきゃならないから」と答えると、「あなたの夫は何かハンディキャップがあるのか」と聞かれた。これによってカツ代の中で、何かが吹っ切れた。

いつカツ代が離婚したのかは定かではない。ただ、このアメリカ行きがきっかけになったらしい。

その後は阪神・淡路大震災によって行き場を失ったペットの保護活動や、著名人による女声合唱団の結成など、活躍の場を広げた。

だが67歳で、くも膜下出血で倒れた。手術で一時は回復するかに見えたが、再び意識不明に。以降、長い闘病が始まった。

倒れて6年後には、健太郎がオートバイの事故で車椅子生活になった。ケンタロウという名で、男子料理家として人気を博していた矢先だった。

カツ代が息を引き取ったのは9年目。NHKで速報が流れた。

カツ代の家庭料理は、まさに今の時短のはしりだが、料理のみならず、生き方でも亡くなり方でさえも、今に続く問題を提起したといえる。

今なお彼女のレシピは愛され続け、リハビリを続けるケンタロウには、復帰を望む声が絶えない。

 

参考資料/中原一歩著『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』、小林カツ代著『カツ代ちゃーん!』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。
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