読み物

読み物-日々をここちよく-

高山都さんがいつも「私らしい」理由|大人には大人の美容習慣#6
深い眠りへと誘い、すっきりと目覚める簡単呼吸法|おやすみ前の“のんびり”エクササイズ#2
今日の疲れを癒し、明日を元気に迎える簡単ヨガポーズ|おやすみ前の“のんびり”エクササイズ#1
夜こそキレイの磨きどき!|大人には大人の美容習慣#5
  • ライフスタイル

1142 view

時代を生きた女たち#1|森 瑤子

6歳からバイオリンを始め、東京藝大に進んで、バイオリニストを目指したが、実力のなさを自覚し、大学一年で、そうそうに夢を諦めてしまった。その後、世界を放浪中だったイギリス人と結婚。3人の娘に恵まれて、順風満帆の家庭生活に見えたが、バイオリンを諦めた挫折感は、心の中に残っていた。

この記事をお気に入りに追加

おしゃれで華やかなイメージと妻として母としての本来の姿

森 瑤子 もり ようこ●1940〜1993

森瑤子は37歳で作家デビューし、以来、華やかで危険な香りのする小説を書き続けた。
時代はバブル期まっただ中。大きな肩パッドのスーツをまとい、恋多き女のイメージを持ちつつも、イギリス人の夫と3人の娘たちとの、おしゃれな暮らしぶりをつづったエッセイも人気だった。

自分の居場所を見失う

旧姓の本名は伊藤雅代といい、結婚後にマサヨ・ブラッキンになった。父の伊藤三男は、かつては小説家を目指した文学青年だった。彼の趣味で、瑤子は6歳からバイオリンを習わされた。
絶対音感がないと宣告されたが、それでも家に先生を招いてレッスンを受けた。練習を怠けると、父は高圧的な態度で強制し、否応なしに続けるしかなかった。それでも長く続けていれば上達し、高校生の時にジュニアオーケストラに入ったのをきっかけに、東京藝術大学に進学。
だが入学してみると、同級生たちの技量に圧倒された。もともと音楽が好きだったわけではなく、最初の夏休み前には、バイオリニストになる夢を諦めてしまった。その後は美術系の学生たちや、怪しげなアーティストの仲間に入ったり、フランス文学に傾倒したり、先行きの不安を抱えながらも青春を謳歌した。

卒業後は広告代理店に就職。小学生の頃から作文が好きで、コピーライターの道を選んだのだ。
アイヴァン・ブラッキンと出会ったのは、その年の初夏だった。故国イギリスを出て、世界を放浪中に日本に立ち寄ったのだ。顔立ちがよく上背があって、美男好みの瑤子の心をとらえた。
定職のない外国人との結婚は両親に反対されたが、アイヴァンは英文の広告コピーを書くようになり、瑤子の収入もあって暮らしは成り立った。
夫婦は娘を3人授かり、子育てのために都心を離れ、三浦半島の海岸近くに引っ越し。瑤子は広告代理店を退社し、フリーのコピーライターをしつつ、慎ましやかながらも穏やかな暮らしだった。

瑤子が32歳の頃、アイヴァンがダーツ用具の輸入を始めた。あくまでも本業は英文の広告で、これは副業だったが、アイヴァンの日本語が充分ではなかったため、瑤子がコピーライターを辞めて協力した。
売り込み先は、欧米人が集まるような、おしゃれなバー。そのため六本木に引っ越しし、アイヴァンに連れられて、瑤子も営業に出かけた。そこには海辺の素朴な暮らしとは、まるで違う世界が待っていた。
だが瑤子は違和感を覚えたらしい。藝大仲間との縁は続いており、気づけば、皆、アーティストとして活躍している。なのに自分はバイオリンに挫折し、好きだったはずのコピーライターも辞めてしまった。ここに来て、自分の居場所を見失ってしまったのだ。

その頃、画家の池田満寿夫が『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。アーティストでも小説が書けるのだと知った。

そこで瑤子は、六本木のバーに集(つど)う欧米人たちを題材に、『情事』という小説を書いた。その世界に、どっぷり浸かってしまわず、やや引いた立ち位置にいたことで、そこで繰り広げられる男女の関わりを、冷静に描けたのだ。
これが「すばる文学賞」を受賞。初めて書いた小説だったが、学生時代に身に着けたフランス文学の素養が生きたのだ。
それに瑤子はバイオリニストを目指して育った。音楽家は演奏によって自己を表現し、聴衆の心をつかむ仕事だ。いわばバイオリンを原稿用紙に、弓を万年筆に変えて、自己表現の世界に立ち戻ったともいえる。

 

別荘でも原稿に向かう

『情事』は共感を呼び、たちまち売れっ子作家に。編集者との打ち合わせなどで夜の外出が増え、取材旅行で家を空ける機会もあった。また大勢に注目されるようになったことで、おしゃれに気を配り、化粧も派手になっていった。
アイヴァンは自分の知らない世界に羽ばたいていく妻に、不安を覚えた。妻の収入が、はるかに自分よりも多くなったことも、彼の尊厳を傷つけた。
その頃には英文コピーの仕事は、大手の広告代理店に移っていた。すでにダーツの仕事からも離れており、今度はイギリスからヨットを輸入する会社を立ち上げた。ヨットはアイヴァンの何よりの趣味だったが、輸入は思わぬトラブルが起きて、莫大な損失を出してしまった。

もともとアイヴァンは海や自然を愛し、三浦半島の家は別荘として残していた。瑤子が作家デビューする前から、週末ごとに家族5人で三浦半島に出かけ、夏には軽井沢に家を借りて過ごすという暮らしだった。
しかし瑤子は仕事が多忙を極めるようになると、別荘に来てまで執筆に没頭し始めた。これに対してアイヴァンは、もっと家族の時間を大事にしろと言い募り、激しい夫婦喧嘩を繰り広げた。
そんな環境の中、小学生だった末娘が悪夢に悩まされるようになった。何かに取り憑かれたように泣き叫びながら家を飛び出し、追いかける母親を翻弄。交番の厄介になることもあった。
娘たちは3人ともインターナショナルスクールに通ったが、次女は反抗期が激しく、門限破りや家出騒ぎも引き起こした。瑤子は、それを軽いエッセイに仕立てつつも、本当は家族の問題を重く受け止めていた。
離婚は必至と見られても、おかしくはない状況だったが、瑤子は家庭に留まった。それは妻であり母であるマサヨ・ブラッキンがいたからこそ、森瑤子という存在が成立したからだ。

バブル期の喧騒の中、多くの女性が自分を見失い、森瑤子に憧れた。瑤子はそのイメージに応えるべく、化粧に念を入れて、肩パッドの入った服装で出かけた。だが本来の姿に戻る時間は必要だったのだ。
膨大な量の原稿を抱え、しだいに激しい胃痛を訴えるようになった。そして53歳の時に、精密検査で胃がんが発見された。
すでに長女のヘザーはベルギーに嫁ぎ、三女のナオミはロンドンに留学中。インターナショナルスクールの卒業生たちは、世界に出ていくことが珍しくはないものの、家族が久しぶりに集まったのは母親の死の床だった。
瑤子は娘たちに、かまってやれなかったことをわびた。実際には忙しい時間をやりくりして、娘ひとりひとりと海外旅行に行くなど、濃密な時間を共有していたが、夫の指摘は心の奥に、深い悔いとして残っていたのだ。
最期はアイヴァンに寄り添われ、娘たちに看取られて旅立った。若さが惜しまれたものの、作家としての全盛期に亡くなったのも、森瑤子らしい幕引きだった。

 

参考図書/『ファミリー・レポート』森瑤子著、『森瑤子・わが娘の断章』伊藤三男著など


文=植松三十里

うえまつみどり:歴史時代小説家。1954 年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『ひとり白虎 会津から長州へ』( 集英社文庫)。http://30miles.moo.jp/


お買いものはこちら