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時代を生きた女たち VOL.2【マリー・アントワネット】

政略結婚でオーストリアからフランスへと嫁いだが、15歳の花婿と14歳の花嫁は、なかなか本当の夫婦にはなれず、アントワネットは享楽的な日々を送った。だが23歳で子供に恵まれると、一転、態度を改めた。しかし詐欺事件に巻き込まれてイメージを損ない、さらに革命によって、運命は大きく転換していった。

フランス革命の激動に翻弄された美しき王妃

マリー・アントワネット●1755〜1793

あなたの周囲にもいるかもしれない。家がお金持ちで、おしゃれで、顔立ちも可愛い女性。華やかな性格のため、男女とわず、いつも仲間たちの中心にいる。ただ、わがままな面もあって、仲間外れにされる人もおり、彼らにしてみれば、うらやましいけれど、ねたましい存在だ。10代から20代初めのマリー・アントワネットは、そんなタイプのひとだった。

錠前づくりが趣味の国王

マリー・アントワネットは18世紀の中頃、オーストリアの都ウィーンで、皇帝の15番目の子として生まれた。幼い頃から音楽やバレエが得意で喝采を浴びたが、作文を書かせると間違いだらけ。それでも明るい性格で、だれからも可愛がられて育った。母のマリア・テレジアはしっかり者で、夫に先立たれると、外交や内政に手腕を発揮。敵対していたフランスと手を結ぶことになり、娘をフランスの王家に嫁がせることにした。だが上の娘たちの早世や病気が相次ぎ、アントワネットにお鉢がまわってきた。マリア・テレジアにしてみれば、難しい政略結婚を任せるには、心もとない娘だったが、ほかに持ち駒がなかった。とにかく完璧なフランス語を身につけさせて、14歳で隣国に送り出した。

フランス側は美しい花嫁を大歓迎。ただし1歳上の夫は、あまり異性には興味がなく、身分に似合わず錠前づくりが趣味。ちょっとオタクっぽい若者だった。嫁いだヴェルサイユ宮殿は、パリの中心部から十数キロ離れた郊外にあり、豪華絢爛な宮殿内部は一般に公開されていた。国力を誇示するための政策だったが、アントワネットにしてみれば、食事中ですら大勢のさらし者にされているようで、居心地が悪かった。若い夫妻は何度かパリを訪問し、そのたびに市民に熱狂的に迎えられた。オペラ鑑賞や仮面舞踏会も刺激的で楽しく、アントワネットはパリが大好きになった。そして数人のお供を連れ、お忍びでパリまで夜遊びに出かけるようになった。これも現代のお嬢さまにもありがちなことだ。


夫が20歳で国王に即位し、ルイ16世になった。王妃となったアントワネットは、ヴェルサイユ宮殿の広大な敷地内にあるプチ・トリアノンという離宮を、夫からプレゼントされた。そこは大宮殿とは違って、暮らしやすい広さで、プライバシーも保てる。アントワネットは、お気に入りの取り巻きだけを呼んで、楽しく日々を過ごした。だが、これは宮廷のしきたりを無視した行為だった。ましてアントワネットは高価なドレスを次々と新調したり、取り巻きの女性に、とんでもない金額を気前よく与えたり。これに対して、取り巻きに加われなかった貴族たちは、冷ややかな目を向けた。また当時は凶作続きで、先々代の国王から続いた対外戦争の影響もあって、庶民は苦しい生活を強いられていた。しかしアントワネットには知る由もない。

ルイ16世との間には、当初から夫婦関係がなかったが、たがいにさほど不自由には感じていなかったらしい。淡白な夫婦というのも、いたって現代風だ。ただし世継ぎが生まれないのは大問題で、アントワネットの兄がオーストリアから足を運んで、ルイ16世を説得。その甲斐あって、アントワネットは23歳で長女を出産。その後、夫婦仲は睦まじく、2男2女に恵まれた。

おとしめられた王妃の評判

アントワネットが30歳の時、世にいう「首飾り事件」が起きた。発端は、540 粒ものダイヤを連ねた豪華なネックレスを、パリの宝石商が制作したことだった。だが、あまりに高価で、買い手がつかずに困っていた。ジャンヌという自称伯爵夫人が、これを聞いて詐欺を思いついた。ロアン枢機卿という聖職者が、アントワネットの取り巻きに加わりたがっており、彼をだますことにしたのだ。ジャンヌはアントワネットが書いたかのような偽手紙を用意し、ロアンに接近。200通もの手紙をやりとりした挙句、娼婦を偽アントワネットに仕立てて、密かにロアンに会わせた。そして後でルイ16世が支払うかのように思い込ませて、例のネックレスをロアンに買い取らせたのだ。ジャンヌはネックレスを手にして逃走。ダイヤをばらばらにして売りさばいた。ロアンの方は、支払期限が来て宮殿に問い合わせたところ、前代未聞の高額詐欺事件が発覚したのだ。

ジャンヌは捕まって投獄されたが、アントワネットはイメージダウンという形で巻き添えになった。こんな事件が起きるのは、そもそも王妃の浪費が要因だと、ささやかれたのだ。そのうえジャンヌは10ヶ月で出獄すると暴露本を出版し、アントワネットを誹謗(ひぼう)。事件への関与も匂わせた。人々はそれを信じ込み、王妃の人気は地に落ちた。だがアントワネットは子供に恵まれた頃から、国家財政の危機を知って、すでに浮ついた暮らしぶりを改めていた。肖像画を見ても、それまでの高々と結い上げた髪型をやめ、ドレスも簡素になっていくのがわかる。もともと浪費は国家予算の数%に過ぎなかったが、人々は苦しい生活は、王妃のせいだと憎しみをつのらせた。


そして革命が始まったのだ。急速に市民層が力を持ち、国王側の軍隊との衝突が起きた。ルイ16世は市民側に歩み寄ろうとしたが、アントワネットは王権の侵害を嫌った。国王側と市民側は一進一退を繰り返しながら、しだいに国王側が権力を失っていった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリへと連行され、チュイルリー宮殿に幽閉された。現在のルーブル美術館に隣接する宮殿だが、長く使われておらず荒れ果てていた。アントワネットは身の危険を感じ、一家で馬車に乗り込んで、母国オーストリアに向けて逃走を図った。しかし国境まで、あと50キロの地点で捕まってしまった。市民側は逃走を国王の裏切りととらえ、そそのかしたアントワネットを、いっそう憎悪した。

それから1年半、一家は囚人として扱われ、まずルイ16世が断頭台に送られ、9ヶ月後、37歳になっていたアントワネットが続いた。処刑当日、ルイ16世の妹に当てて、こんな手紙を残した。「私は不名誉な死を命じられたのではありません。(中略)陛下と同じく潔白な身の私は、残された時間を、同じく毅然とふるまうつもりです。良心に照らして何のやましいところもない人間として、私は穏やかな気持ちです」
女帝マリア・テレジアの娘であり、その誇りを受け継いでいたことが、よくわかる文面だ。そして悲劇の王妃として、世界の歴史に名を刻んだのだった。

参考図書/『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃』安達正勝著、『マリー・アントワネット 華麗なる激動の人生』田中久美子監修など


文=植松三十里

うえまつみどり:歴史時代小説家。1954 年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『ひとり白虎 会津から長州へ』( 集英社文庫)。http://30miles.moo.jp/