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時代を生きた女たち#3|小野小町

百人一首の「花の色は移りにけりな」の歌で知られ、美貌の歌人として親しまれている小野小町。だが、その一方で、何人もの男をたぶらかした悪女として、手ひどく描かれた時期もある。なぜ、そんなことになったのか、その根拠は何なのか。今回は、ちょっとだけ古文のお勉強。

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絶世の美女か落らく魄はくの老女か。謎多き天才歌人の生涯

おののこまち●生没年不詳

小町といえば美人の代名詞。東北新幹線に「こまち」が走り、ブランド米「あきたこまち」がある。その元になった小野小町は百人一首の「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」の作者であり、六歌仙(ろっかせん)のひとりに数えられた才媛だ。六歌仙は当時の歌人ベスト6だが、小町は紅一点で、並ならぬ才能の持ち主だった。現代の小野小町のイメージは、けっして悪くはない。だが、かつては悪女扱いされ、猟奇伝説の主人公にまでされた。その落差は、どこにあったのだろうか。

謎多き美貌の歌人

父親は小野良実(よしざね)という平安貴族で、都から地方行政官として、出羽国(でわのくに)、現在の秋田県へと派遣された。小野小町は、その赴任中に、今の湯沢市小野で生まれたとされている。それが秋田美人のイメージと重なって、秋田小町という言葉が生まれ、新幹線やお米の名前に転じたらしい。だが、ほかにも出生地とされる場所は複数あり、父親も良実ではないという説もある。

長じては、帝の身近に仕える更衣(こうい)という役目に就いていたというが、恋の歌を何首も詠んでいることから、もっと格下の女官(にょかん)だったとも考えられている。いずれにせよ宮中で働き、歌会に出る機会があったのだろう。生まれた年もはっきりせず、謎の多い女性だ。確実なのは「古今和歌集」に収録された18首が、小町の作という点だけだ。そもそも「古今和歌集」は10世紀の初めに、醍醐(だいご)天皇の命令で編纂(へんさん)された歌集だ。その150 年ほど前に「万葉集」ができている。「万葉集」は身分にかかわらず、さまざまな作者の歌を、4500 首も集めた日本最古の歌集だ。この「万葉集」に載らなかった「古」い歌から、編纂当時、つまり「今」の歌まで収めるという趣旨で「古今和歌集」ができたのだ。

小野小町は9世紀半ばの人だから、この編纂時には、もう亡くなっていたか、歌人としての全盛期は過ぎていたことだろう。だが「古今和歌集」の編者の中心人物だった紀貫之(きのつらゆき)が、小野小町の歌を高く評価し、18首も選んで収録したのだ。紀貫之は「古今和歌集」の「序」で、こんな寸評を残している。「小野小町は古(いにしへ)の衣通(そとほり)姫の流れなり。あはれなるやうにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは女の歌なるべし」作品として力強くはないが、いい女が悩んでいる感じで、強がらないところが女らしいという。衣通姫というのは、肌の美しさが衣を通して外まで輝き出るといわれた美人で、いわばオーラを放っていたのだろう。

その「流れ」であり「よき女」とも書いているところから、小野小町美女説が生まれた。実際には当時の肖像画などは残っておらず、美人だったかどうかは証明できない。ただ「花の色は移りにけりな」の歌は、散っていく桜に見立てて、年令とともに衰えゆく容姿を嘆いており、美人にありがちな悩みともいえる。ともあれ紀貫之が寸評を書いたことで、小野小町は美貌の歌人として注目されたのだ。その時には、すでに本人は過去の人であり、生まれ育ちなどが、わからなくなっていたのかもしれない。

恋歌の名手だったが故に

小野小町は生涯を通して、何人かの男性と歌のやり取りをしており、明らかに恋愛感情が込められた作品もある。また六歌仙のひとりだった文屋康秀(ふんやのやすひで)が、地方役人として都を離れる際に歌を送り、小町は「わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ」と返している。これは小町晩年の作のようで、「すでに、この世には楽しみのない寂しい身だから、誘ってくださる人がいれば、どこにでも行きたい」という意味だ。もっと若い頃の歌らしいが、今の奈良県の石上寺に参拝した際に、同じく六歌仙の僧正遍昭(そうじょうへんじょう)という僧侶に出会い、「岩の上に旅ねをすればいと寒し苔の衣をわれにかさなむ」と詠んだ。「夜、寝るのに寒いから、上掛けにする衣を貸してください」と頼んだのだ。すると僧正遍昭は誘いをかけられたと受け取り、「世を背(そむ)く苔の衣は唯一重(ただひとえ)かさねばうとしいざふたり寝む」と返した。つまり「衣は一枚しかないから、さあ一緒に寝ましょう」という。僧侶とはいえ、なかなか際どいやり取りだ。

また小町没後には「小野小町集」という歌集も編纂された。だが、すべてが小町の自作ではなく、他人の作品も少なくない。当時は、まだ木版印刷の技術がなく、手書きで写本が繰り返された。その過程で「小野小町集」は何度も編纂し直され、しだいに小町風の歌が、小町の作として加えられていったのだ。「古今和歌集」に「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを」という歌がある。「恋しい人を思いつつ眠ったところ、その人が夢に出てきて、夢だとわかっていれば目を覚まさなかったのに」という意味だ。ほかにも夢に関する歌が数首あり、歌会で「夢」という題が出て詠んだのかもしれない。だが「小野小町集」になると、男性とやり取りした歌として、返歌まで掲載されている。この辺りから小町伝説が始まった。現代の有名人の恋愛話に、少しずつ尾ひれがついて、スキャンダルに発展するのと似ている。

時代が下るにつれ、女性は家庭に入るものという概念が定着して、小野小町は美貌と歌の才能で、何人もの男性を手玉に取った悪女とされていった。能で「通小町(かよいこまち)」という演目がある。小町に恋いこがれる男性に「百日、通ってきたら思いをかなえましょう」と約束し、相手を悶死させたという筋書きだ。さらに「玉造小町子壮衰(そうすい)書」「卒塔婆(そとば)小町」などの物語が書かれた。これらは悪女のむくいとして、老いて家族も住む家もなく、落ちぶれて放浪したとしている。文屋康秀への返歌などで詠んだ老いの寂しさが、異様に誇張されたのかもしれない。また「日本霊異記(りょういき)」では小町のしゃれこうべが野ざらしになり、眼孔からススキが生えて「ああ、目が痛い」とうめき続け、通りがかりの僧侶が抜いてやったことで成仏したという。

「源氏物語」の現代語訳などでも知られる作家の円地文子氏は、こういった物語を書いたのは男性であり、背後には「才と美貌を恃(たの)んで家という枠の外へはみだしてしまった女に対する陰湿な男の憎悪」があるという。今や、そんな憎悪は消え、小野小町は優れた歌人としての評価だけが残り、まさに成仏できたのではないだろうか。

参考図書/『華麗なる宮廷才女』円地文子監修、『玉造小町と小野小町』植木学著、『天才作家の虚像と実像 在原業平・小野小町』片桐洋一著など


文=植松三十里

うえまつみどり:歴史時代小説家。1954 年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『ひとり白虎 会津から長州へ』( 集英社文庫)。http://30miles.moo.jp/


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