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時代を生きた女たち#5|岸 朝子

90年代の人気テレビ番組だった「料理の鉄人」で「料理記者歴40年」という触れ込みで審査員を務め、何気なく言った「おいしゅうございます」が大受け。仕事に理解が深い夫と、4人の子供たちに囲まれ、仕事にも家族にも恵まれた。そんな運を引き寄せたのは沖縄ならではの「なんくるないさー」だった。

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「おいしゅうございます」で人気を博した料理記者

岸 朝子●1923〜2015

ある朝、出勤前に母親のところに寄って、コートを脱いだら「変わったスカートね」と言われた。よく見るとスカートをはき忘れており、黒のスリップ姿だった。またバッグの中の整理ができず、いつも何か探していたという。長年にわたって料理記者を務めたしっかり者ではあるけれど、そこつ者でもあったのだ。でも食へのこだわりは揺るぎなく、それは両親から受け継いだものだった。

自転車で牡蠣の行商も

両親ともに沖縄出身で、父の宮城新昌は地元の農学校を出て、移民の世話係としてハワイへ。さらにアメリカ本土に渡って水産業に就き、カナダ西海岸のバンクーバーで牡蠣の養殖に成功した。帰国後は日本各地で牡蠣の養殖を広めつつ、同郷のツルと結婚。新昌は食事を大事にする人で、もともと料理好きだったツルは、新婚早々から料理学校に通わせてもらって、いよいよ腕を磨いた。朝子は夫婦の次女として東京で生まれたが、母の美味しい沖縄料理に親しみ、「掃除、洗濯、裁縫は人任せでもいいが、料理は主婦が目を配らなければならない」と言い聞かされて育ったという。

女学校を卒業後、女子栄養大学の前身である女子栄養学園に通って「病人を作らないための食事」を身につけた。その後は現在の東大農学部のビタミンの研究室で、実験の手伝いなどをした。当時は嫁入り前には、社会的地位のある家庭などに行儀見習いに入るのが一般的だったが、その辺にもアメリカ帰りの父の影響があったかもしれない。そして愛知県出身で、職業軍人だった岸秋正と見合いをした。秋正はラバウルなど南方諸島に駐屯中にマラリアにかかり、後遺症に苦しんでいた。しかし「だからこそ妻をめとって、食事や健康管理をしてもらえ」と周囲から勧められて、結婚に踏み切った。しかし2年後に日本は敗戦。秋正は職を失い、朝子の父の縁を頼って、房総半島の海岸で牡蠣の養殖に携わった。時代は戦後の食糧難。牡蠣はよく売れて、近くの基地からアメリカ兵がジープで買い付けに来たり、朝子が自転車で病院に売りに行ったり。日銭が稼げて楽しかったという。

その頃、栄養士の国家試験があると知り、受験を決めた。朝子は30 歳を前にして、すでに一男二女の母だったが、家事や育児の合間に集中的に勉強して準備した。秋正は妻が何かに一生懸命な時は、かならず応援してくれた。試験に当たっては、房総の住まいから次女だけを連れて、東京の実家に泊まり、受験会場へ。翌日が発表で、無事に合格した。大喜びで帰宅してみると、ちょうど地元の秋祭りの日で、夫のみならず子供たちも機嫌よく留守番をしていてくれた。その夜遅く、4歳になったばかりの長男が腹痛を訴え、水のような下痢をした。翌朝、医者に往診を頼むと疫痢だった。お祭りでもらった寿司が原因で、あっという間に命を落とした。これは朝子にとって人生最大の哀しみとなった。それまで家事や育児に手を抜いたことはなく、良妻賢母を自負していた。それだけに留守をしなければという悔いは深かったことだろう。

料理好きな家庭婦人求む

ちょうど牡蠣の養殖が頭打ちになっていたこともあり、家族は房総を離れて東京に移り住んだ。秋正は沖縄の製糖会社の東京支社に就職。だが家計は苦しかった。32歳の夏のこと。3歳の次女が勝手に大きなスイカを買ってしまった。子供では持てず、青果店の主人が抱えて届けに来た。だが倹約暮らしで、とうていスイカなど買えない。持って帰ってもらおうと思ったものの、つい「なんくるないさー」と受け取ってしまい、家族で笑顔で食べた。ならば倹約ではなく、自分も働こうと職探しを始めたところ、「料理の好きな家庭婦人を求む」という新聞広告を目にした。広告を出したのは主婦の友社だった。

朝子は妊娠中だったが、家で料理の研究でもすればいいのかと応募した。だが身体検査で妊娠がわかってしまい、これは駄目だなと覚悟していたが、意外にも合格。当時としては珍しかった経歴が評価されたし、主婦目線や母親目線が求められていたのだ。ところが週6日出社と聞いて慌てた。すでに次男が生まれており、急いでお手伝いさんを頼んだが、出社初日に彼女の都合がつかなかった。夫も大事な仕事があって、その日は休めない。しかたなく小学校4年生になっていた長女に、赤ん坊の次男も含めて、下の子供たちを預けて出かけることにしたが、後ろ髪を引かれた。長男のこともあったし、普通なら足踏みしてしまうところだが、前に踏み出す勇気を奮い起こすために、「なんくるないさー」と自分自身に言い聞かせた。特にマスコミ志望だったわけではなく、単に経済的な理由で始めた仕事だったが、編集は好奇心の旺盛な朝子には向いていた。『玉子料理300 種』など、料理の単行本を次々と世に出した。だが料理学校のキッチンなどで撮影する場合、どうしても夕方から始まって徹夜になる。家は父子家庭になってしまったが、朝子は夕食を用意して出かけ、休日には子供たちとお菓子作りなどを楽しんで、点数を稼いだという。

主婦の友社に就職して以来、女子栄養大学の出版部から「帰ってこないか」と3度、声がかかった。3度目は45歳の時で、地位は『栄養と料理』という雑誌の編集長。魅力的な誘いながら、同業他社に移るのは抵抗があって心が揺れた。すると大学の学長みずから、主婦の友社の社長に直談判してくれて、転職が実現した。主婦の友社で13年、女子栄養大学で11年間、働いてから独立。女性の編集者や料理ライターを集めて、編集プロダクションを設立したのだ。ちょうど食品関係の企業がPR誌を始める時期で、仕事の依頼は絶えなかった。まもなく70歳という頃、フジテレビのプロデューサーから相談を受けた。「料理の鉄人」という番組を企画しているが、当の鉄人を引き受けてくれるシェフが見つからないという。それまで料理番組といえば、作り方を教えるばかり。朝子は料理人同士の味の対決というスタイルが面白いと思い、長年にわたって築いた人脈から、和洋中華の候補者を即座に挙げた。料理の腕が確かで、明るいキャラクターのテレビ向きな人。これが見事に当たって人気番組に。朝子は審査員も引き受け、何気なく
言った「おいしゅうございます」の感想が大受けした。その後は料理本のみならず、エッセイも出版。美食家ではあったが、摂取カロリーが高すぎた翌日はカロリーを控え、体調管理を心がけた。その甲斐あって最晩年まで元気に仕事を続け、91歳で心不全で亡くなった。

参考図書/『このまま100 歳までおいしゅうございます』岸朝子著、『だから人生って面白い』岸朝子著


文=植松三十里

うえまつみどり:歴史時代小説家。1954 年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『ひとり白虎 会津から長州へ』( 集英社文庫)。http://30miles.moo.jp/


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