読み物

読み物-日々をここちよく-

未来の肌に投資して。人気美容家に聞く、30代から始めるべき基本のエイジングケアって?
エイジングケア、何から始めるべき?「つやプラ×オルビス 迷える女性におくる美容セミナー」をレポート
1日の疲れをリフレッシュして、明日の美をつくる簡単フィットネス|おやすみ前の“のんびり”エクササイズ#3
「手放して自由になる」心地よさ│自分らしく年齢を重ねる女性にインタビュー
  • ライフスタイル

356 view

ハル・ライシャワー|時代を生きた女たち#6

父方の祖父は明治政府の重鎮、松方正義。母方の祖父はニューヨークで成功した貿易商。名家に生まれ、アメリカ式の教育を受けたものの、それゆえにハルには苦しみが待っていた。だが終戦後は国際的なジャーナリストとして羽ばたき、運命の人ライシャワーと出会って最大の転機が訪れた。

この記事をお気に入りに追加

日米の相互理解に尽力したアメリカ大使夫人

ハル・ライシャワー●1915〜1998

父方の祖父、松方正義は、明治政府で総理大臣や大蔵大臣などを歴任した公爵だ。一方、母方の祖父、新井領一郎は若くして渡米し、絹貿易で成功した実業家だった。祖母の田鶴は午年生まれで、親族に「暴れ馬」と呼ばれるほど、活動的で思い切りのいい女性。はるばる海を渡って領一郎のもとに嫁いだのだ。そんな夫婦の間に生まれたのが、ハルの母となるミヨで、完全にアメリカ育ち。ハルの父となる松方正熊もアメリカ留学の経験があり、英語のできる伴侶をと、ミヨを妻に迎えた。ハル自身は祖母、田鶴に似た活発な少女で、幼稚園から小学校2年までは、姉とともに聖心女子学院に通った。だが両親は日本の教育に飽き足らず、麻布の自邸に米英の女性家庭教師を招いて、娘たちの教育を託した。5年生からは南青山のアメリカンスクールに編入。高校課程まで終えると、アメリカ中西部にあるプリンシピア大学に留学。成績抜群で、ボーイフレンドもできたものの、どこか乗り越えられないものを感じ、卒業と同時に帰国。

だが22歳のハルを待っていたのは、軍国主義に突き進む日本社会だった。松方家の令嬢でありながら、自由な教育を受けた身には居場所はなく、縁談もない。さらに日本は真珠湾攻撃で対米戦争に突入。ハル以外のきょうだいは留学中だったり、国際結婚したりでアメリカにいた。そのため松方家は危険視され、警察官が執拗に調べに来て、世間の目も冷たかった。父の正熊は圧力をかけられたのか、経営していた会社を手放して、妻とハルの3人で鎌倉の別荘に引き移った。ハルは27歳になっていたが、思うような仕事にもつけず、鎌倉駅で列車に飛び込もうとまで思いつめた。戦況が悪化すると、松方家は群馬県内の山村に疎開。そこで終戦の玉音放送を聞いた。村人たちが泣き伏す中、一家は密かに平和の訪れを喜び合ったという。

終戦から一月余り後、アメリカ軍のジープがやって来た。乗ってきたのは母校プリンシピア大学の恩師と「クリスチャン・サイエンス・モニター」という新聞の特派員。留学中、さんざん自動車を運転していたハルは、彼らが降りるなり、勝手にジープのハンドルを握って、大喜びで山道を疾走した。力強いジープは暗い時代の終わりを象徴していた。彼らの来訪の目的はハルだった。当時、日英のバイリンガルが求められており、「クリスチャン・サイエンス・モニター」を手伝わないかと誘われたのだ。ハルは日米両視点はもとより、女性ならではの視点も併せ持ち、戦後日本の惨状や復興を原稿にまとめた。これによってジャーナリストとしての才能が開花。また市川房枝や山口シヅエといった女性政治家を、アメリカの要人に引き合わせるなど、日本女性の地位向上にも尽力した。ハルは能力を高く評価され、数年後には一流週刊誌「サタデー・イブニング・ポスト」の特派員事務所に移籍。給料はドル払いで、レートは1ドル500 円。一挙に高給取りになり、麻布の旧邸近くに新居を建て、丸の内の勤務先までイタリア製の小型車で通勤した。運命の人との出会いは、そんな優雅で何不自由ない時期に訪れた。

40歳の新婦と45歳の新郎

エドウィン・ライシャワーは父親が明治学院大学の宣教師で、東京生まれの東京育ち。ハルがアメリカンスクールに編入した頃、高校課程でバスケットボール部のキャプテンをしていた。その後、ハーバード大学で日本史と中国史を研究し、歴史学者としての道を進んだ。25歳でアドリエンというアメリカ人女性と結婚し、1男2女に恵まれた。だが結婚20年を前に、アドリエンが心臓病で他界。傷心のライシャワーは16歳を頭に3人の子を伴って、研究のために来日し、ハルと恋に落ちたのだ。 ライシャワーは自宅にハルを招いて子供たちと引き合わせ、クリスマスイブ前日にプロポーズ。それまでハルは恋に無縁だったわけではない。だが「天ぷら蕎麦を食べない?」と気軽に聞けて、料理の説明も要らず、「ああ、いいね」と即答してくれるアメリカ男性は初めてだった。生涯をともにできると確信し、結婚を承諾。しかし子供たちは難しい年頃で、まして実の母が死んで丸1年も経っていない。挙式に参列しないとまで言って猛反対。すでに40歳になっていたハルを、母として受け入れるには時間が必要だった。渡米後、夫はハーバードでの研究に戻り、ハルは子供たちとの仲を温めつつ、「サタデー・イブニング・ポスト」への寄稿を続けた。

夫人の支えが重要な外交に

結婚から5年が経ち、ケネディが大統領に就任すると、ライシャワーの身に思いがけないことが起きた。発足したばかりのケネディ政権から、駐日アメリカ大使にと打診されたのだ。60年安保闘争の影響で、日本国内の対米感情は、けっしてよくはなかった。ましてライシャワーは歴史学者で、日米関係に思うところはあるものの、外交には素人。不安は大きかった。だが来日してみれば、普通に日本語が話せる大使と、夫人のハルは大歓迎され、日米関係は好転に向かった。ライシャワーは人との出会いを大切にし、ハルは大使館でのもてなしに尽力した。また女性政治家や閣僚夫人をアメリカに送るなどして、日本女性の意識改革にも努力を重ねた。しかしライシャワーが、包丁で右股を刺されるという事件が起きた。日本の社会問題は、すべてアメリカが原因と思い込んだ男による凶行だった。この4ヶ月前にケネディは暗殺されており、後任のジョンソン大統領はベトナム戦争に積極的で、ライシャワーとは相容れない。それでも外交官は国の政策に従わねばならず、事件を機に退任も考えた。だが怪我を負ったまま帰国すれば、日米関係に禍根を残す。そのため日本に踏み留まった。2年後に無事に帰国を果たすと、ライシャワーはハーバード大学に戻り、70歳まで研究を続けた。だが刺し傷の後遺症で、長く肝炎に苦しめられた。

ハルは松方正義と新井領一郎、両祖父の生涯を、英文の歴史ノンフィクションとして描いた。定年後のライシャワーが手を貸し、『絹と武士』と題して出版。これによって日本の心を広く伝えた。ライシャワーが79歳で亡くなった後も、ハルはライシャワー記念講演会を開催。年一度、日本から研究者を招いて公開講座を開くなど、83歳で他界するまで、日米の相互理解を深め続けた。ハルの生涯は年代によって劇的に変化した。それは未知の世界に踏み出す勇気を、常に持ち続けた結果であり、そうして豊かな人生を招き寄せたのだろう。

参考図書/『ハル・ライシャワー』上坂冬子著ほか


文=植松三十里

うえまつみどり:歴史時代小説家。1954 年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『ひとり白虎 会津から長州へ』( 集英社文庫)。http://30miles.moo.jp/


お買いものはこちら