床の上に転々と散らばる本や書類、脱いだままの洋服たち。ひとことでいえば、散らかっている部屋、という光景である。しかしそんな光景が、時たま、とてつもなく愛おしく思えることがある。
我が両親は、片付けというものを全くしない人だった。特に父は本を愛するあまり、あらんかぎりの本を買い込んではそれを死ぬまで一冊たりとも捨てようとしなかった。本は次第に山積みになり、家の部屋という部屋へ侵食していた。もちろん片付けどころか、掃除もできない。
子どもの私は、本の上を跳ね回り、本の上に寝転び、本のページを次々捲(めく)って遊んだ。
かくして、私は大人になってはじめて、片付けというものを、学んだのである。本は本棚に並べる、という基本的なところからのスタートだった。確かに、部屋が片付いていると、気持ちがよい。整理整頓ができていると、失くしものもずっと減る。とはいえ、なかなか完璧には片付けられない。
真夜中、気づけば散らかっている部屋を前に、私は夜空を見あげる。スペースデブリ、宇宙のゴミと呼ばれるものが地球の周りに漂っている、という記事を読んだことがある。
かつて打ち上げられた、人工衛星やロケットなどの部品や破片などが、未だ地球の衛星軌道上を回りながら漂い、人工衛星と衝突するなど、随分な問題になっているらしい。
とはいえ、心のどこかで、それをロマンチックだと思わずにいられない自分がいる。だって、そこには今なお、スプートニク1号の破片が、あるかもしれないのだから。だって、そこには今なお、宇宙飛行士がうっかり落とした手袋が、あるかもしれないのだから。それらがゴミだなんて、私には到底理解できない。
いま、この瞬間にも、この空の上に漂い、散らばるものたちの光景を想像し、うっとりしてしまう。
宇宙がすっかり片付くまで、私の部屋は到底片付きそうにない。
文と絵
小林エリカ
作家・マンガ家。『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で芥川賞・三島賞候補に。新刊は光の科学史を辿る『光の子ども3』(リトルモア)、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)