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勝田コウ|時代を生きた女たち#107

函館のハム・ソーセージで知られたカール・レイモン夫人。大正年間に駆け落ちから始まった国際結婚。相手はドイツ人の食肉加工のマイスター。いったんは彼の故郷のボヘミアにおもむいて、ハム・ソーセージの店を開き、商売は順調だったが、夫がヨーロッパ統一活動に熱を入れて失敗。夫婦で函館に戻って開店したが、今度は売れず……。

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函館の八幡坂。まっすぐに函館湾に通じている。

勝田コウ●1901~1997
函館のハム・ソーセージで知られたカール・レイモン夫人

昭和20年代後半から50年代にかけての函館に、入手困難なハムやソーセージがあった。毎週発売日の朝には、販売店の前に長蛇の列ができて、すぐに完売。

カール・ワイデル・レイモンというドイツ人が、ひとりで手づくりしていたために、生産量が限られていた。まして当時はソーセージといえば真っ赤なウィンナー。ハムは四角くて端が赤いプレスハム。そんな中で本物の味が人気を集めたのだ。

そのビジネスパートナーとも言うべき妻が勝田コウだった。結婚してからの名は、コウ・マリア・ワイデル・レイモンといった。

駆け落ちで国際結婚に

明治34年、コウは函館一と評判だった勝田旅館の娘として誕生。西洋人の客も多い宿だった。コウは公立の女学校を出てから、遺愛女学校というミッションスクールに入り直して英語を学び、家業を手伝った。

一方、レイモンは、もともとボヘミアのドイツ系住民で、祖父の代から食肉加工のマイスター。レイモン自身、幼い頃から仕事を手伝い、世界中に修業に出た。当時のソーセージは缶詰が多く、缶詰製造技術も習得した。

北海道では北洋漁業が盛んだった時期であり、レイモンは北の海で捕れたサケ、マス、カニの缶詰生産を指導するために函館に来て、勝田旅館に長期滞在した。

2人は恋に落ちて結婚を望んだが、コウの両親が猛反対。レイモンは単身で中国に渡り、列車と船のチケットを密かにコウに届けた。21歳になったばかりのコウは、これを握りしめて出奔。待ち合わせ場所の天津のホテルまで、たった1人でおもむいたのだ。

天津からは2人でボヘミアへ。故郷の町はヨーロッパ有数の温泉リゾートだった。そんな町の一角にハム・ソーセージの店を開き、レイモンが作って、コウが売り、店は順調にスタートした。

かつてレイモンは20代半ばで第一次世界大戦に従軍し、負傷した末に敗戦を経験。その苦い思い出から戦争を毛嫌いし、店が軌道に乗ると、ヨーロッパ統一運動にのめり込んだ。だが世界中でナショナリズムが高まる時期であり、それに逆行するヨーロッパ統一など見向きもされなかった。

そんな時、コウが手紙で家族に無事を知らせると「いつでも帰っておいで」と返事が来た。それを見て「帰ろう」と言い出したのはレイモンの方だった。よほど活動の失敗が痛手だったのだろう。

 

コウが24歳、レイモン31歳で日本に戻り、函館駅前に小さな店と工房を開いた。だが売れなかった。大正年間の終盤で、まだまだ肉食に抵抗があったのだ。

コウは勝田旅館での経験から、東京や神戸の外国人向けホテルに売り込みに行き、販路を開拓した。それでも経営は苦しかったが、切羽詰まった時にドイツ軍艦が函館に入港。大量に品物を買ってもらえて、商売は好転した。

レイモンには北海道に大規模な畜産と食肉加工を根づかせ、日本人の食生活や体格を改善させたいという夢があった。ヨーロッパ統一活動を諦めた後、志をシフトしたというべきかもしれない。

レイモンが英文で計画書を作り、コウが翻訳して清書。それを携えて札幌の北海道庁に出向いた。日本語では込み入った話ができない夫のために、コウは通訳を務め、夫唱婦随のプレゼンテーションを展開した。しかし北海道庁は牛乳やバターによる酪農政策を推し進めており、養豚を中心とした畜産には見向きもしなかった。

そこで実例を示すつもりだったのだろう。夫婦は現在の新幹線駅である新函館北斗駅前に広大な土地を購入。ドイツから2人のマイスターを招いて、大規模な農場と食肉加工場を開いた。すると思いがけないことにレイモンが、満州から畜産アドバイザーとして招聘(しょうへい)された。

朝鮮半島の北に位置する満州は、日本からの移民が盛んな新天地であり、まして中華料理には豚肉や牛肉が欠かせない。レイモンは最新設備の工場や農場を、満州各地に建設していった。

この時、コウは留守を守った。従業員も増えており、1人で大規模経営を支えたのだった。

思いがけない落とし穴

だが落とし穴が待っていた。レイモンの浮気が発覚したのだ。家の手伝いをしていた女性が、後年、証言したところによると、相手はロシア女性だったという。

当時はロシア革命から逃れた貴族などが、満州北部や北海道で暮らしており、故国を追われた女性に、レイモンが同情を寄せたのだろうか。激しい夫婦喧嘩を繰り広げたが、夫婦ともにカトリック信者で、信仰上、離婚が許されない。

その後、ロシア女性がどうなったかは不明だが、結局、コウは夫を許したのだ。2人の間には女児が授かり、いつしか穏やかな家庭が戻った。その後の連れ添い方を見ると、許すという判断は悪くはなかったようだ。

 

日中戦争が勃発して間もなく、レイモンは満州の仕事を終えた。もしかすると反戦思想が問題視されて、解雇されたのかもしれない。そのせいか突然、夫婦で道庁に呼ばれ、新函館北斗駅前の農場と工場を、酪農の組合に強制的に売却させられたという。小規模にハム・ソーセージを製造販売することさえ禁じられた。

太平洋戦争が始まると、スパイではないかと疑われた。働き者の夫婦にとって仕事がないことも辛く、暗い日々を耐え忍んだ。

終戦から3年、良質な材料供給が安定するのを待って、函館元町に小さな工房を建て、ようやく製造を再開できた。人気が高まったのは、その後のことだ。以来、コウが80歳を超え、レイモンが90歳に近づくまで元気に働いた。

でも、そのままではブランドが消えてしまう。それを惜しんで、大手ハムメーカーの技術者2人が弟子入りを志願。レイモンは日頃から作業を見せるのを嫌ったが、なんとか弟子たちは製造方法を見て覚え、函館カール・レイモンという新会社を設立した。

夫婦はブランドを譲り、ドイツに嫁いだ愛娘を頼って、ミュンヘンで晩年を過ごすつもりだった。しかし、この時もレイモンの方が函館を懐かしがった。結局、わずか半年の滞在で帰国し、教会や坂道の美しい元町で暮らした。

レイモンは昭和62年に93歳で、コウは平成9年に96歳で他界。EUができて、レイモンの夢だったヨーロッパ統一が進展したのは、コウの死の4年前だった。2人が暮らした家は、今も静かなたたずまいを残し、隣地の工房は函館カール・レイモンの直売所となって人気を集めている。

晩年のコウがインタビューを受けたビデオがあるが、とても肌がきれいだ。美肌も長寿も、本物のハム・ソーセージを長年にわたって食べたせいかもしれない。

[参考資料]川嶋康男著『大きな手 大きな愛 〝胃袋の宣教師〞函館カール・レイモン物語』、シュミット村木眞寿美著『レイモンさんのハムはボヘミアの味』、浅利政俊著『お手伝いの一人として見たカール・レイモン大野工場-工藤ソヨさんからの聞き取り-』等

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『レイモンさん』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

写真提供/肖像写真;函館カール・レイモン、風景写真:©hi-bi/amanaimages/

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