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フローレンス・ナイチンゲール|時代を生きた女たち#108

白衣の天使というイメージのもとになったナイチンゲール。あくまでも優しく、たおやかな女性を想像させる。しかし実際は男まさりの行動派。従軍看護師団のリーダーとなり、赴任した病院は環境が最悪だった。そこで得意の統計学を使い、ヴィクトリア女王まで味方につけて、改革を推し進めたのだ。

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キングス・カレッジ・ロンドンの図書館。ナイチンゲールが設立した看護学校は現在、この大学の一学部になっている。

フローレンス・ナイチンゲール●1820~1910年
イギリス人看護師で、医療改革に尽力した。

ランプを持った貴婦人は反骨精神と実行力の人だった

ナイチンゲールは「ランプを持った貴婦人」と呼ばれる。夜間、ランプを携えて病室を見まわる気高い姿に、傷病兵たちが心安らぎ、そう呼んだのだ。

反面、彼女は反骨精神の人で、時には周囲に辛辣な批判を浴びせつつ、自分が信じる理想の看護を追求。その実行力こそがナイチンゲールの名を歴史に刻んだのだ。

何不自由ない少女時代

フローレンス・ナイチンゲールが生まれたのは1820年。産業革命がイギリスに根づき、大英帝国の繁栄が始まった頃だった。

両親は、とてつもなく裕福なイギリス人夫妻。彼らは長い新婚旅行を楽しみ、ナイチンゲールが生まれた時には、イタリアのフィレンツェに滞在中だった。そこでフィレンツェの英語名であるフローレンスと名づけたのだ。

母は社交的な美人だったが、父は学究肌でロンドンの社交界には背を向け、自邸の立派な図書室で娘に学問を授けた。その結果、ナイチンゲールはヨーロッパの各国語を身につけ、文化系の教養はもちろん、当時の女性には無縁だった数学や統計学まで学んだ。

いつしか看護の仕事につきたいと望むようになった。しかし当時の女性看護師にはセクハラがつきものだった。また医師や患者との上辺だけの恋愛を繰り返したり、男社会の中で深酒に溺れたりするイメージも強く、令嬢のつく仕事ではないと、両親は猛反対。それでもナイチンゲールは諦めず、結婚には背を向けて、自力で医学の知識を深めた。

 

望む仕事に踏み出せたのは33歳の時だった。ロンドンのハーレー街にあった女性向け医療支援施設で、無給ながらも責任者としての地位を得たのだ。ハーレー街は医者たちが住む高級住宅地であり、両親としては、そんな場所ならばと認めたのかもしれない。

そこでナイチンゲールは施設運営の合理化を進めた。日に何度も御用聞きに頼んでいた物品を、まとめて仕入れたり、施設内に医薬品を扱う部門を設けたり。

その頃、イギリスはクリミア戦争に踏み出した。トルコを戦場にして、ロシア軍と戦ったのだ。だがイギリス軍は傷病兵の手当が不充分で、戦病死が続出。これについてロンドンの新聞が、大々的に批判記事を載せた。

時の戦時大臣はシドニー・ハーバートといって、夫人とともにナイチンゲールと親しかった。ハーバートはナイチンゲールの能力の高さを熟知しており、思い切って女性従軍看護団を組織し、そのリーダーを任せた。

 

すでにフランスでは、修道女たちによる組織的な看護活動が進んでいたが、イギリスでは女性の活躍が立ち遅れていた。当時のイギリスは身分社会。ハーバートは、ナイチンゲールが知的で、まして上流階級に属していることで、女性看護師のイメージを改められると考えたのだ。

ナイチンゲール率いる女性看護団38人は、熱狂的な見送りを受けて戦地トルコへと旅立った。向かったのはスクタリという町の兵舎病院。スクタリは現在のイスタンブール市内に当たり、イギリス軍が軍事拠点を置いていた。

病院に入る前に看護師のひとりが「すぐに可哀そうな患者さんの看護をしましょう」と言った。するとナイチンゲールは毅然として「いちばん力持ちの人には、洗濯桶で働いてもらいます」と答えたという。彼女が何より重要視したのは清潔だった。

30代で故国の英雄に

兵舎病院の状況は最悪だった。3000人収容できるという病室は、窓のない体育館のようで、悪臭が満ちていた。そこに固いベッドが、びっしりと並ぶ。シーツはゴワゴワした帆布で、傷病兵たちが毛布の上に寝たいと切望しても、与える毛布がない。入浴設備はなく、体を拭ってやれる人数は限られる。まして石鹸もタオルもない。薬や包帯など、あらゆる物資が不足していた。

イギリスから発送されているはずなのに、それを受け取る管理体制が定まっていないため、返送されてしまったり、武器の荷揚げの後まわしにされたり。患者たちはなすすべもなく、次々と死に至った。

ナイチンゲールはハーレー街での経験を生かして、物資の管理体制を整えた。本来の申請手順では時間がかかりすぎるため、独断で本国に発注をかけ、自費での買いつけもためらわなかった。

そんな状況下で、新たに負傷兵の一団が送られてくることになった。病院の敷地には荒れ果てた建物があり、ナイチンゲールはそこを修繕して、一団を迎えようと考えた。だが陸軍上層部の許可が必要であり、これも煩雑すぎて、とうてい間に合わない。またもや独断で建築業者を頼み、自腹で費用をまかなった。

しかし手順を飛ばされた軍人たちは、女に面目を潰されたと激怒。また禁酒など、ナイチンゲールが定めた厳しい規律に耐えきれず、離れていく看護師も現れた。敵は少なくなかった。

だがナイチンゲールは、何よりヴィクトリア女王を味方につけることに成功した。得意の統計学を駆使して、現状をグラフ化して示し、理解を促したのだ。新聞は彼女の勇気ある行動に、称賛の記事を書き立てた。すると読者から寄付が寄せられ、ナイチンゲール基金が設立された。ナイチンゲールは30代なかばで故国の英雄になった。この人気が追い風になり、兵舎病院の環境は目に見えて改善された。

またナイチンゲールはどんなに疲れても、毎晩、何通もの手紙を書き、亡くなった兵士の家族宛に、最期の状況を知らせた。

 

戦争が終わってイギリスに引き上げる際には、華々しい凱旋は避け、偽名を使って、ひっそりと入国した。彼女は名声を求める人間ではなかったのだ。

帰国後は陸軍医療の改革を目指し、ふたたび統計学を用いて、傷病兵の実態を詳しく調査した。すると意外なことに、前線の小さな野戦病院よりも、彼女がいたスクタリの病院の方が、はるかに死亡率が高かったと判明。病院の下に下水が淀んでおり、細菌がはびこって感染症を広げたらしい。だが当時は細菌の存在が解明されておらず、打つ手はなかった。

 

ナイチンゲールは40歳を前に体調を崩し、一時は寝たきりになった。この統計結果に衝撃と責任を感じたせいだともいう。それでも病床から、ナイチンゲール基金による看護学校設立に協力。これが現在まで続く看護学校の基本となった。

以降、90歳で亡くなるまで、滅多に外出はせず、膨大な執筆に専念した。中でも「看護覚え書」は看護教育の古典として、今なお読みつがれている。

またナイチンゲール看護学校が最初に開かれたロンドンの聖トーマス病院の一角には、彼女の小さな記念館が設けられており、世界中からの見学者が絶えない。

[参考資料]ヒュー・スモール著、田中京子訳『ナイチンゲール 神話と真実』、L・ストレイチー著、中野康司訳『ヴィクトリア朝偉人伝』等

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『レイモンさん』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

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