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高野悦子|時代を生きた女たち#109

高野悦子は並外れた努力家だ。だが映画界には、女は監督になれないという鉄則があり、その壁は、どんな努力をもってしても超えられなかった。仕事も夢も失った彼女がいざなわれた立場は、新しいホールの支配人。映画を作る側から見せる側に転換したことで、それまでの努力や経験が実を結び、岩波ホールは日本の文化拠点のひとつへと成長した。

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高野悦子●1929~2013年
男社会の映画界から弾かれて、成功をつかんだ岩波ホール総支配人

生涯、独身を通した高野悦子にとって、父、高野與作と、母、柳の存在は大きかった。

特に柳は、今の奈良女子大を出て、女学校の教師を務めた教養人。高給取りで面倒見がよかったことから、優秀な学生が苦学していると聞くと、名前や立場を隠して学費を援助した。いわば女性のあしながおじさんだ。そんな苦学生のひとりが3歳下の與作で、それが縁で結婚に至った。

與作は東京帝大を卒業し、日本の国策会社だった南満州鉄道に、エリート技師として就職。柳は教師を辞めて満州に渡った。

そんな両親のもとで、悦子は三姉妹の末娘として誕生。親が男児を望んでいた影響か、男の子のように活発に育った。満州は進歩的な土地柄だし、両親は出会いの経緯もあって、夫婦の立場は対等。文化的な家庭だった。

 

だが終戦後の引き揚げで、暮らしは一変した。母と三姉妹は、與作の郷里に身を寄せたが、そこには当時の日本にありがちな封建的な暮らしが待っていたのだ。

満州の與作とは3年も音信不通になり、柳には嫁という立場が押しつけられ、わずかな期間で髪が真っ白になったという。悦子は性差による理不尽を痛感した。

経済的にも苦しかったが、柳はコレクションしていたクラシックレコードを売って、悦子を日本女子大に進学させてくれた。

映画の魅力に開眼

運命的な出会いは、この女子大にあった。たまたま指導教授から「日本の映画」という研究テーマを与えられたのだ。

この頃から悦子は、並外れた行動力を発揮する。あまり映画を見ていなかったため、それを埋めるべく映画館を渡り歩き、あらゆる映画を1日5本も見た。

そして、どんな映画に、どんな年齢層が集まるかなどを徹底的に調べた。いわゆるマーケティング・リサーチだ。しだいに映画館側は入場料をサービスしてくれるようになり、お礼として調査結果を渡した。これが映画会社にまで伝わった。当時は映画が当たるかどうかは、ベテランの演出家や興行師の勘頼りで、悦子の調査は社内で注目を集めた。

映画の魅力に目覚めた悦子は、卒業後に東宝に入社し、企画調査を任された。この頃には年間1000本もの映画を見たという。

洋画では男女平等の、うっとりするような世界が描かれていたが、日本映画のヒロインは耐える女ばかり。悦子は不満を覚え、自分で映画を作ろうと助監督を志願したが、「女は駄目」と一蹴されてしまった。当時の制作現場は、圧倒的に男性中心だったのだ。

そこで留学を決意。世界最高峰と評されるパリのイデックという映画学校を目指した。渡仏後にフランス語の勉強を始めたが、すでに29歳になっていた悦子には予想以上に難しく、焦りや不安で毎晩、泣き続けたという。

 

このあたりから悦子の行動力に、とてつもない頑張りが加わる。毎日50ずつ単語を憶え、わずか3ヶ月で会話が聞き取れるようになったという。ただし体重は12キロも減っていた。

イデックの校長に会いに行くと「女は重いものが持てないし、大声も出せないから、監督には向かない」と怒鳴られた。フランスでさえ映画監督は男性だけだったのだ。悦子は負けずに言い返した。「それは男の助監督にやってもらいます。私は監督になりたいので、そんな必要はありません」

さらに大学入試資格であるバカロレアの対策や、イデックの入試に向けて猛勉強を重ねた。その結果、1年足らずの準備期間で希望通り入学でき、さらに3年後には無事卒業に至った。

在学中、映画制作を学ぶのはもちろん、ほかでは得難い人脈を得た。特に世界各地から集まった留学生たちは、卒業後、自国で一流の映画人として活躍し、彼らとの絆は悦子の財産になった。

自分の企画が手を離れ

帰国すると日本はテレビの時代を迎えていた。そこで、いったんドラマのシナリオや演出を手がけ、好評を得たが、やはり映画の世界に目を戻した。

みずから監督しようと選んだ題材は、戦国時代の種子島への鉄砲伝来。これを日本とポルトガルの合作映画にすべく、ふたたび渡欧し、イデック当時の仲間の協力を得て実現へと向かった。

しかし気づけば企画は悦子の手を離れ、ポルトガルではなくアメリカとの合作映画に形を変え、別の監督の手で撮影が始まってしまった。それほど女性監督への壁は厚かったのだ。

悦子は盗作だとして裁判に持ち込み、勝訴。だがその間、仕事はなく、先の見込みも失った。そんなどん底で転機が訪れたのだ。

その頃、岩波書店の社長、岩波雄二郎が自社ビル新築に当たって、何か文化的な施設をと、10階に232席の小さなホールを作った。彼は悦子を高く評価し、そのホールの運営を任せたのだ。

東宝時代の先輩からは「女が仕事をするには、もっともらしい肩書がないと相手にされない」と言われ、単なる支配人ではなく、岩波ホール総支配人と名乗った。

 

ほどなくして「女の支配人では劇場がつぶれる」という噂が立った。ここで成功させなければ「やはり女だから駄目だった」と言われ、後進の女性たちのためにもならない。それに小さなホールだからこそ、できることがあるはずだと、悦子は全力を尽くした。

当初は音楽会や古典芸能なども上演したが、大学時代からつちかった目を活かして、商業ベースに乗らない名画を、世界中から掘り起こして上映。いわばミニシアターの嚆矢(こうし)だ。最初は50人しか入らない日もあったが、新聞や雑誌が好意的な論評を載せ、まもなく満席になった。

こういった上映会を、映画の仲間を意味する「エキプ・ド・シネマ」と名づけて定期的に続けた。そうそうたる世界の映画人たちが、悦子の仲間として協力したのだ。

世界各地で開かれる映画祭におもむき、特にアジアやアフリカの映画や、女性が手がけた作品を発掘。そんな女性監督の映画の中に、高齢者の認知症を扱った日本のドキュメンタリーがあった。

当時、柳は認知症が進んでいた。しっかり者の母だっただけに、悦子は苛立ち、なんとか改善させようと焦った。だが、その映画を見たことで、接する態度を改めた。

長い年月にわたって、柳は深夜に及ぶ娘の帰宅を待ち、毎晩、話を聞いてくれたものだった。そんな母の世話をするのは幸せと思い直し、穏やかに寄り添うことにしたのだ。

すると驚いたことに、寝たきりだった柳が「悦子がひとりになるとかわいそうだ」と起き上がってリハビリを始めたという。そして認知症から回復。映画は家族の問題まで救ってくれたのだ。

 

その後も岩波ホールは文化拠点として高い評価を受け、悦子は83歳で亡くなるまで、数々の輝かしい賞を受賞した。

 

[参考資料]『私のシネマライフ』『心にひびく映画ー興行の世界に創造をー』『母 老いに負けなかった人生』以上高野悦子著、「成瀬記念2018 No.33」

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『雪つもりし朝』(KADOKAWA)など著書多数。最新刊は『レイモンさん』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

〈肖像写真提供〉読売新聞社 〈イメージカット〉Janja Milosevic / EyeEm

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