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ルーシー・M・モンゴメリ|時代を生きた女たち#110

『赤毛のアン』の舞台、プリンス・エドワード島で生まれ育ったが、家族との縁は薄かった。小学校の教員、祖母の介護、新聞記者など、紆余曲折を経て、『赤毛のアン』で一気に人気作家に。その後、牧師と結婚し、息子ふたりに恵まれたが、しだいに夫は……。

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プリンス・エドワード島にある「グリーンゲイブルズハウス(緑の切妻屋根の家)」。モンゴメリのいとこがかつて住んでおり、アンが暮らす家のモデルになった。

ルーシー・M・モンゴメリ●1874 ~ 1942 年
読む人に感動と勇気を与え続けた『赤毛のアン』の作者

『赤毛のアン』には自伝的な要素がある。そのため明るく元気なアンの姿が、どうしてもモンゴメリ自身に重なる。

だが彼女には死ぬまで書き続けた膨大な日記があり、そこにはアンのイメージとは裏腹に、生きにくさがつづられている。人気作家になってからも、苦悩を日記に吐き出しながら、作品を書いたのだ。

プリンス・エドワード島にて

『赤毛のアン』の舞台になったプリンス・エドワード島は、東京都の3倍ほどの広さ。カナダの東の果てに位置し、今は本土から橋で渡れる距離だ。

明るい入り江と緑の牧草地が広がる美しいこの島で、モンゴメリは生まれた。今から146年前のことだ。だが1歳9ヶ月の時に母が他界。父はカナダ本土の仕事につき、モンゴメリは同じ島内に住む、母方の祖父母のもとに預けられた。

父方の祖父は国会議員まで務めた人物で、母方も由緒ある家柄だった。誇り高い祖父母はモンゴメリを厳しくしつけ、地元の子どもたちと遊ぶのを嫌った。そのため友達のいない少女は、空想の中で遊び、物語を愛して育った。

小学校に入ると、早くも文才が萌芽。15歳で作家を志した。日記も、この頃からつけ始めた。

 

一方、父はカナダ西部で再婚しており、小さな子どもたちが生まれていた。そんな父のもとに、モンゴメリは16歳で引き取られ、大陸横断鉄道に乗って西に向かったのだ。新しい家族との暮らしが始まったが、養母はモンゴメリと12歳しか違わず、互いに馴染めなかった。モンゴメリは子守や家の手伝いを強いられ、ろくに勉強もさせてもらえない。

そこで自分の世界を求めて、文章を投稿するようになり、自作の詩が新聞に大きく掲載された。いよいよ作家への憧れがふくらみ、プリンス・エドワード島への望郷の念も止みがたく、わずか1年で祖父母のもとに帰った。

17歳で島の中心地にある大学への進学を望んだが、女子に高等教育は不要とされた時代だった。それでも孫娘の好成績を知った祖父が、1年という期限つきで学費を負担してくれた。

普通なら2年かかるところを、猛勉強の末、モンゴメリは1年で卒業し、教員免許を取得。18歳で小学校の教師になって自立した。さらに次の1年間で学費を貯め、本格的に文学を学ぶべく、カナダ東部の名門大学に進学。夢に向かって努力を重ねたが、この頃から逆に苦難が増していく。

学業のかたわら、原稿を書いては出版社に送ったが、そのほとんどが不採用。19歳の時に初めて掲載料を受け取ったものの、とうてい学費には及ばない。貯金もつきて、大学は中退せざるを得なかった。

ふたたび小学校の教師に戻ったが、向学心のない生徒たちに悩まされるばかりで、作家としての芽は出ない。

この頃、ハーマンという若者と恋をした。以前から言い寄られることはあったが、今度は結婚まで意識した。しかし家庭に入れば、作家への夢は遠のく。結局は踏み切れないでいた。

そんな時に祖父が他界。老いた祖母の面倒を見るために、教師をやめて、故郷に戻らなければならなかった。

そこに衝撃が襲う。ハーマンがインフルエンザで急逝したという。さらに25歳の時には、父の死も伝えられた。父は作家という夢の、たったひとりの理解者だった。

短期間に身近な人を次々と失い、先行きも暗い。だが、このどん底を経て、モンゴメリの人生は転機を迎えた。

新聞記者を経て作家デビュー

大学時代の友人が、東部の都市にある新聞社を紹介してくれたのだ。モンゴメリは祖母の世話を従姉妹に頼み、記者として働き始めた。

仕事は楽しかったが、これも長くは続けられなかった。祖母は気難しく、従姉妹ではお手上げで、またもや9ヶ月で呼び戻されてしまったのだ。

祖母の世話のかたわら、なおも投稿を続けると、片端から雑誌や新聞に取り上げられるようになった。そうして新鋭の作家として地位を固めた。

小さなコミュニティのための新聞に、短編小説の連載が決まり、モンゴメリは何を書こうかと、それまでに書き溜めた創作ノートを開いた。すると10年ほど前のメモが目に止まった。それは「老夫婦が孤児院に男の子を養子にほしいと申し込んだところ、まちがって女の子が送られてきた」という新聞記事だった。

モンゴメリの中で、その少女の姿がいきいきと動き始めた。アンの誕生だ。もはや短編ではなく、本一冊分として書くことにした。

29歳の5月から書き始め、プリンス・エドワード島の魅力をふんだんに盛り込み、翌年1月に脱稿。ニューヨークの出版社などに原稿を送った。

しかし、どこも不採用。自信があっただけに、今までにない落胆だった。原稿は帽子の箱にしまわれ、クローゼットの棚で存在すら忘れられた。

その後、モンゴメリは探しものをしていて、この原稿を見つけた。再読すると、やはり面白い。そこで、もういちどボストンの出版社に送ったところ、とうとう出版が決まった。

当時、アメリカでは、自殺やアルコール依存症、性描写などの大衆小説がもてはやされていた。そこに健全で清々しい物語が登場し、世代を超えた人々に歓迎されて、一挙にベストセラーに躍り出た。

 

ただし通信手段が限られていたこともあって、モンゴメリ自身は隣国での華々しい成功を、さほど実感できなかったという。実生活では、相変わらず祖母に振りまわされ、暗い日々が続く。すでに友人たちは嫁いで家庭に入り、友好関係が途切れていく。

そんな状況を一時的にでも忘れたくて、物語世界に入り込んだのだろう。出版社も読者も続編を望み、モンゴメリは『アンの青春』に着手した。

そうしているうちにユーアン・マクドナルドという若い牧師が、地域の教会に赴任してきた。上背があり、顔立ちも整った教養人だ。ユーアンはスコットランドに移ることになり、その前にモンゴメリにプロポーズした。

だが牧師には転勤がつきもので、そのたびに祖母を連れてはいかれない。ずっと先になってもよければと、モンゴメリは条件つきで承諾した。その後、祖母が亡くなってから、ふたりは結婚。モンゴメリは36歳になっていたが、男児ふたりにも恵まれた。

牧師の妻は、地域の人々の相談役であり、まとめ役でもある。モンゴメリは作家と、息子たちの母と、牧師の妻という3役を懸命に果たした。

だがユーアンにしわ寄せが来た。大人気作家の夫という看板が重く、自身を無能だと思い込んで、心を病んだのだ。愛する人の鬱病は、モンゴメリを何より苦しめた。

また『赤毛のアン』シリーズは、あまりに長編化し、もはや続行が負担になっていた。それでも執筆を拒みはしなかった。苦悩は日記に吐露し、さらに作品の奥に、さり気なく込めることで、昇華させていったのだろう。救いは書くことにあり、それが作品を読む人々に、感動や勇気を与える結果に繋がった。

 

67歳で死去。ユーアンも翌年、妻の後を追うかのように他界した。

[参考資料]桂宥子著『現代英米児童文学評伝叢書2 L・M・モンゴメリ』、L・M・モンゴメリ著、水谷利美訳『ストーリー・オブ・マイ・キャリア「赤毛のアン」が生まれるまで』等

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『梅と水仙』(PHP研究所)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

〈肖像写真提供〉〉©Heritage Images 〈イメージカット〉©Don White

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