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大浦お慶|アンコールエピソードをお届け!時代を生きた女たち#1

過去の人気エピソードをプレイバック!記念すべき連載第一回をお届けします。

ロンドンでハロッズが急成長していた頃、同じ茶商として、長崎で大成功した女性がいた。時代は幕末の転換期。彼女は勤王の志士たちを支えつつ、茶の輸出で貴重な外貨を獲得した。だが明治を迎えると、長崎貿易は衰え始め、心の隙間につけこむ男たちが現われた。

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大浦お慶●1828~ 1884年
茶の輸出で巨万の富を築きつつもその生涯は波乱に満ちていた

ハロッズといえばイギリスの高級デパート。もとは茶商として出発し、今も緑色の缶入り紅茶が人気だ。その最初の店が、ロンドンにオープンしたのは1849年。当時、紅茶は中国やインドからもたらされ、大きな利益を生む商品だった。

その出店の前年、大浦お慶は長崎から上海に渡ったとされている。さらにはインドにまで足を延ばしてから、無事に帰国をはたしたという。その後、お慶は日本茶の輸出で大成功を収めるのだが、上海に渡ったのは、わずか数え年21歳の時。ペリーの黒船艦隊が来航して、日本が開国する6年も前のことで、当然ながら密航だった。

幕府は鎖国中も、中国とオランダとだけは、長崎で貿易を続けており、お慶は中国船の積荷に隠れて、命がけで海を渡った。当時は賄賂がものをいう時代だけに、役人に相当な額を渡したのだろう。

西洋人が好んだ日本茶

お慶はそれだけの資産のある豪商に生まれ育った。生家は油商で長崎の油屋町にあった。今も油屋町は、にぎやかな商店街だ。ただ長崎は、何ごとも派手好みで、散財を容認し、豪商が何代も続かない土地柄。お慶の父親も家業を傾けて、失踪したといわれている。まだ弟は幼く、お慶が店を継がざるを得ず、17歳で婿を迎えた。だが、この婿も商売には向かなかった。そのために、お慶の方から見限って、さっさと離縁したという。

その頃、油の商売はさらに厳しくなり、新規の事業を探さなければならなくなった。お慶は、なんとか中国貿易やオランダ貿易にたずさわりたいと、この頃、現地調査のために、思い切って上海に渡ったのだろう。そこで中国茶や紅茶が、ヨーロッパやアメリカで好まれていることを知ったにちがいない。お慶は日本茶のおいしさは、西洋人にも通じると信じ、茶の輸出に目をつけたのだ。

そして帰国後、九州産のお茶を商品見本として、ヨーロッパに帰るオランダ人に託した。日米和親条約が結ばれて、日本が開国する前年のことだった。

 

3年後、お慶は驚くべき客を迎えた。オールトという若いイギリス人で、かつての商品見本の空袋を、たずさえて現われた。そして、いきなり60トンもの日本茶を注文したのだ。あまりの量に驚きながらも、お慶は九州一円を駆けまわり、懸命に注文に応じた。当時の茶は、農家がほそぼそと作っている程度で、一括で買い入れられる仕入れ先などなかった。

お慶の思惑は当たり、西洋でも日本茶は好まれ、輸出量はうなぎのぼり。それまでは日本茶の輸出など考える者さえなく、最初に手をつけたお慶の独占となった。

その後は製茶方法の改良や、お茶の木の普及にも努めた。そして現代の貨幣価値にすると、毎年、数億円にものぼる利益を出したという。同じく換算すると下級武士の年収が200万円という時代に、女ひとりで稼ぎ出した驚異的な額であり、貴重な外貨だった。

坂本龍馬のスポンサー

輸出が軌道に乗る頃、時代は幕末の混乱期に入り、長崎には勤王の志士たちが集まり始めた。お慶は高い志を持つ若者を愛し、援助を惜しまなかった。

有名なところでは、坂本龍馬の海援隊が、お慶の世話になっている。彼らは長崎の貿易商グラバーから、軍艦や大量の武器を買い付けたが、その際に資金を助けてもらったのだ。海援隊士の中では、特に陸奥陽之助という若者が、お慶の気に入りだったらしく、龍馬は金策となると、陸奥をお慶のもとに使いさせたという。後に陸奥は宗光と改名し、明治以降は外務大臣をつとめた。

そのほか早稲田大学の創始者となった大隈重信や、内閣総理大臣までのぼりつめた松方正義などが、若かりし頃、お慶の屋敷に身を寄せていた。お慶は30代後半の女盛り。彼らとは男女の仲だったと噂され、後に講談などで色好みと揶揄された。

現在では、それを否定する向きもあるが、みずからの才覚を生かして、単身で財を成したのだから、みずからの意志で恋人を作ったとしても、それはそれで女傑という言葉に、ふさわしい生き方かもしれない。

絶頂期を過ぎてから

だが明治維新後、志士たちは東京に出て、貿易の中心も横浜に移り、長崎商人たちは勢いを失っていった。

日本茶の輸出総量は激増したものの、静岡産が出まわり始め、九州産は押されて、お慶の商売も縮小せざるを得なくなった。

そんな中、品川藤十郎という長崎通詞が、遠山一也という熊本藩士を紹介し、新規の事業を持ちかけてきた。品川は茶貿易を始めた当初から通訳をつとめ、お慶の仕事のパートナーのような存在だった。

茶の輸出で世話になったオールトは、すでにイギリスに帰国していたが、オールト商会という会社が長崎に残っていた。遠山は、そのオールト商会に、熊本産の煙草を売る計画を立てていた。ただオールト商会としては、遠山と取引の実績がないことから、保証人として信頼できる人物を立ててほしいという話だった。

そこで遠山は品川を通じて、お慶に近づき、保証人を依頼してきたのだ。煙草の納品については、熊本藩が保証するという。お慶は信頼する通訳の頼みであり、熊本藩の証書もあることから引き受けた。

だが、これは品川と遠山がしくんだ詐欺だった。遠山は品川に多額の借金があり、返済に困って、架空の事業計画を持ちかけ、オールト商会から前金3000両をだまし取ったのだ。お慶は裏切りに気づいて、熊本藩に掛け合ったが、女商人など相手にもされない。

 

一方、約束の煙草は、いっこうに納品されず、オールト商会が被害を訴え出て、国際問題にまで発展した。

お慶は裁判で熊本藩に立ち向かったものの、結局、敗訴。遠山や品川も返金を求められたが、不足分と違約金をあわせて、4500両もの支払いが、お慶に命じられた。とうてい支払いは不可能に思えたが、ここからが長崎商人としての、心意気の見せ所だった。お慶は責任を重く受け止め、家屋敷を抵当に入れて、懸命に返済に努め、みごとに完済したのだ。

晩年の名誉回復

お慶が52歳の時、アメリカの前大統領だったグラント将軍が来日した。グラント将軍は乗船してきたアメリカ軍艦で、長崎に滞在中、船上パーティを開いた。ここに、長崎の女性としては、ただひとりお慶が招かれた。日米貿易への貢献が、高く評価されたのだ。

さらに57歳で、茶業振興功労褒賞と功労金が、明治政府から与えられた。これは現在の県知事にあたる長崎県令、石田英吉の働きかけによるものだった。

この頃、お慶はすでに病に倒れ、回復が見込めない状態だった。かつて石田英吉は海援隊に属しており、病床のお慶をいたわって、最後の恩返しをしたかったのだろう。

お慶は日本の茶輸出の先駆者として認められ、心安らかに息を引き取ったにちがいない。

 

[参考資料]小川内清孝著『長崎商人伝 大浦お慶の生涯』、本馬恭子著『大浦慶女伝ノート』

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『梅と水仙』(PHP研究所)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

〈イメージカット〉©simonlong

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