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石井桃子|アンコールエピソードをお届け!時代を生きた女たち#72

過去の人気エピソードをプレイバック! 反響の大きかった第72回をお届けします。

青春時代から40歳までは、日本は軍国主義のただ中。それに共感できない桃子は才能に恵まれながらも、模索する日々が続いた。だが終戦を迎えると一転、時代が桃子を歓迎。「くまのプーさん」をはじめ海外の名作を翻訳するかたわら、創作でも力を発揮し、児童文学の第一人者となった。

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石井桃子●1907~ 2008年

日本の子供たちにいい本を その思いを貫いた長き生涯

「くまのプーさん」といえば、今やディズニーのキャラクターとしてお馴染みだが、ミッキーマウスやドナルドダックのようにウォルト・ディズニーが生み出したものではない。もとはイギリスの児童小説であり、それを翻訳し、日本に紹介したのが石井桃子だ。ほかにも「ピーターラビット」や、ブルーナの「うさこちゃん」シリーズの訳者でもある。

そんな中で翻訳ではなく、桃子の創作として最初に世に出たのが『ノンちゃん雲に乗る』だ。この名作は、兵役についた恋人をなぐさめるために、一章ずつ書き綴った作品だった。

「プーさん」との出会い

石井桃子は明治40年に、現在のさいたま市浦和区で、6人きょうだいの末子として生まれ育った。家は中山道沿いの商家で、父は地元の銀行家。裕福な暮らしぶりで、人の悪口や陰口が無縁な家風に育(はぐく)まれ、桃子は本好きで、純粋な心根の少女として成長した。

ただ姉たちの嫁ぎ先を見て、世の中の実情に気づき、結婚に失望。日本女子大の英文学部に進学し、夏休みに外国人宣教師のハウスキーパーをして英語を磨いた。そして在学中から、菊池寛が立ち上げた文藝春秋で、翻訳や口述筆記、雑誌編集などを務めた。

作家や文化人とも交流のある華やかな世界。桃子はモダンガールの仲間入りをしつつも、実生活はつつましやかで、ついたあだ名が「石井銀行」。けっして収入は多くはなかったが、男性編集者たちは給料をもらうと、銀座で遊んでしまい、桃子に借りに来たのだ。

 

22歳の時に、老代議士だった犬養毅(いぬかいつよし)の書庫の整理を依頼され、手伝いに出向いたところ、人柄が気に入られて、犬養家に親しく出入りするようになった。

2年後に犬養毅は総理大臣の座に就いたが、翌年、軍の青年将校たちに暗殺された。この事件が桃子の心に大きな衝撃と、軍への不信感を与えたのは疑いない。

さらに翌年、桃子は胸を患って、26歳で文藝春秋を退社。社内で戦争擁護派と反戦派との対立が始まり、そんな中にいることにも疲れを感じていたのだ。

ただ犬養家との交流は続き、この年のクリスマスイブに、家に招かれて「プーさん」に出会った。犬養家の子供たちがクリスマスプレゼントにもらった『プー横丁にたった家』の原書を、即興で訳しながら読み聞かせたのだ。

子供たちは大喜び。桃子も、すっかり魅了され、その場で「しばらく貸して頂けない? 私、これ訳してみたいの」と頼んだ。

翌年、作家の山本有三から、子供向けのシリーズ本の創刊に誘われて、新潮社に出社。児童文学のみならず、科学や歴史など子供向けの良書を、全16巻で刊行。これが好評で、桃子は児童書の世界に足を踏み入れていく。

 

30代に入ると、犬養家の書庫を借りて、子供向けの図書室をオープン。ここで自分の翻訳を読み聞かせて、反応を見ながら言葉を選び直すという、桃子の翻訳スタイルが出来上がっていった。

そうして石井桃子訳『熊のプーさん』が、岩波書店から発刊されたのは33歳の時だった。

恋人をなぐさめた名作

その頃、犬養毅の孫娘で、後に評論家になる犬養道子から「スキーに行きたい」と請われた。桃子は編集者としての人脈で、スキー愛好会を探し出し、一緒に出かけるようになった。

良家の子女揃いの愛好会で、桃子は年上だったが、淡々とした性格から、今度は「タンタン」と、あだ名された。親しみを込めて、そう呼んだひとりに、7歳下の進藤四郎という若者がいた。

ほどなくして日本は戦争に突入。四郎は、東京の中野にあった陸軍気象部に勤めたが、上官の暴力が日常茶飯事で、繊細な四郎には耐え難い世界だった。

そのため日曜ごとに桃子に会いに来ては、つらさを訴えた。桃子は「じゃあ、あなたのために、お話をひとつ書くわね」と約束し、毎週1章ずつ書いて渡した。これが『ノンちゃん雲に乗る』の草稿だった。

ノンちゃんという少女が雲の上の世界に行き、見知らぬおじいさんに身の上話をするという設定だ。幼い頃に赤痢にかかった話や、温かい家庭のちょっとした出来事を、章ごとに語っていく。

 

四郎は原稿を兵舎に持ち帰り、消灯後に懐中電灯で照らして読んだ。そして「ノンちゃん読んでいる時だけ人間になってるよ」と言い、その後、スキー仲間で回し読みをした。雲に乗るという発想は、四郎が気象の仕事をしていたことと、無関係ではない。

ふたりは結婚を意識したが、代々、九州の医家で、資産家でもあった進藤家が反対。四郎自身には、それを押し切ってまでという気概はなかったらしく、桃子としては「この人、甘ったれなんだなあ」と、気持ちが離れてしまい、結ばれることはなかった。

さらに戦争が激化。児童書も戦意高揚に役立つものばかりになり、桃子は厭世観を抱く。平和的な『ノンちゃん雲に乗る』には、出版の見込みすらなかった。

農場の開墾に向かう

そんな中、狩野ときわという女学校の教師と知り合い、意気投合。東京大空襲後、ときわの実家のある宮城県に疎開し、女性ふたりで土地の開墾を始めた。ちょうど鍬入れの日に終戦となったが、桃子は東京に未練はなく、骨を埋めるつもりで開墾を続けた。

しかし人々は本に飢えており、特に児童向けの良書の発刊は急務だった。時代は桃子を求め、『ノンちゃん雲に乗る』も、ようやく出版された。

 

そうして40代を迎えたが、その後の桃子の長い人生から見れば、まだまだ序盤に過ぎなかった。『ノンちゃん雲に乗る』刊行の収入をもとに、乳牛を買い入れ、開墾地は牧場らしくなっていく。その一方で、東京の出版社からは、創作や翻訳を依頼され、兼業を余儀なくされた。

岩波書店で「岩波少年文庫」が創刊され、その編集責任者になり、翌年には第1回芸術選奨文部大臣賞を受賞。『ノンちゃん雲に乗る』はベストセラーになった。東京までは列車を乗り継いで10時間もかかったが、桃子は農場との往復生活を続けた。

ただ狩野ときわも、一農場主ではいられなかった。地元の議員に選出され、農村の環境改善に努めたのだ。その結果、ふたりが目指すものが食い違い始め、農場は、ときわの養女が引き継いだ。

 

その後も桃子の輝かしい活躍は続き、海外にも羽ばたき、編集者として後進の発掘にも尽力。『ぐりとぐら』の中川李枝子を世に出したのも桃子だった。

87歳の時には子供向けではなく、若き日の私小説的な作品『幻の朱い実』を出版。99歳で乳がんが見つかると、即座に手術に応じた。最後まで前向きに生き、101歳で天寿を全うしたのだった。

 

[参考資料]『ひみつの王国 評伝石井桃子』尾崎真理子著など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『梅と水仙』(PHP研究所)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

〈イメージカット〉©Hiroshi Murakami/a.collection/amanaimages

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