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河西昌枝|時代を生きた女たち#111

1964 年の東京オリンピックで、女子バレーボールチームは「東洋の魔女」と呼ばれた。名づけたのはソ連(現ロシア)の新聞社。そんなチームのキャプテンが昌枝だ。結婚こそが女の幸せだった時代に、引退を先送りにしつつ、過酷な練習に耐え、仲間たちと金メダルを獲得。ソ連との決勝戦のテレビ中継は、日本中に感動を与えた。

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河西昌枝●1933~2013年
東京オリンピックで「東洋の魔女」を率いた金メダリスト

河西昌枝(かさいまさえ)は昭和8年、甲府盆地の西端近く、今の南アルプス市で、男児ばかりが続いた農家の末娘として誕生。幼い頃から背が高く、小学校入学の頃には、親が心配して「2年生に入れてもらえないか」と学校にかけ合ったという。女の子は長身を恥じた時代だった。

中学高校とバレーボール部に所属したが、特に強豪校ではなかった。たまたま宇都宮に遠征に行った時に、ニチボー(現ユニチカ)足利工場の工場長が、河西の長身に目を留めた。

当時、紡績工場には女子従業員が多く、社内スポーツ活動が盛んだった。特にニチボー足利チームは強く、社会人大会で全国優勝していた。ここで河西は1年間、ボール拾いを務めた。その後、会社の方針で、各地の工場から貝塚工場へ精鋭が集められ、足利チームは全員、異動が命じられた。だが栃木県から大阪府への異動を嫌がって、大半が引退。結局、貝塚に移った選手は河西と、もうひとりだけだった。

この新チームの監督になったのが、以前からニチボー貝塚の社員だった大松博文だ。しかし精鋭といっても寄せ集めで、当初は負けっぱなし。全国優勝までに1年3ヶ月を要した。

この優勝を機に、河西は引退するつもりだった。当時は見合い結婚が一般的で、20代前半が適齢期と見なされていた。河西は24歳。両親も娘の花嫁姿を楽しみにしていた。しかし大松が実家まで訪ねてきて「もう1年、お願いします」と、両親に頭を下げた。また海外遠征の話も持ち上がっており、河西は残留を決めた。同時にキャプテンに指名された。

 

意識が変わったのはブラジルでの世界選手権だった。世界への初挑戦で、まずは予選通過が目標だった。だが意外にも勝ち進み、決勝戦でソ連と競(せ)り合って負けた。この経験によって、河西たちは「ソ連に勝てば世界一になれる」という期待と自信を持ったのだ。目指すは3年後、モスクワでの世界選手権。この頃から、すさまじい練習が始まった。後に大松は『おれについてこい!』と『なせば成る!』という2冊の本を出したが、まさに、そのタイトル通りの指導だった。罵声を浴びせつつ強烈なボールを投げつけ、選手は泣きながらボールに食らいつく。

スポーツの指導には、殴る蹴るがまかり通っていた時代。ニチボー貝塚では、ほとんど暴力はなかったというが、皆無ではなかった。だが選手たちも負けてはおらず、監督をひっぱたき返す者もいたという。河西自身、大松を突き飛ばしたことがあった。

そんな中で、大松は回転レシーブを考え出した。敵のサーブを受ける際に、床に転がりながら腕を伸ばしてレシーブし、その勢いに乗って一回転する。立ち上がった時には、すでに臨戦態勢に戻っているのだ。

当初は誰もが不可能だと思った。だが猛練習を繰り返すうちに、全員できるようになった。大松は「見てみい。やればできるんや」と言い、選手たちは「監督の言う通りにすれば、できるようになるんだ」という信頼が生まれた。選手にとって監督は父であり、兄であり、恋人のような存在だったという。

 

厳しい練習の末、モスクワでの世界選手権で、ソ連チームを破って世界一に輝いた。この頃から「東洋の魔女」と呼ばれ始めた。河西は29歳。今度こそ引退するつもりだった。20代ぎりぎりでの結婚にもこだわりがあった。

しかし2年後の東京オリンピックで、バレーボールが正式種目に決まった。すると会社は続行を期待し、実家には県庁の役人が来て、郷土の誇りとして続けてくれという。老いた父は「娘を返してくれ」とは言えなくなった。

大松は「おまえたちが残るなら、自分も残る」と、選手たちに判断を委ねた。河西は最年長だし、辞める権利は自分にこそあると思った。2年後まで体力を維持できる自信もなかった。

しかし全員が辞めたいのに、自分ひとりだけ望みをかなえるのは、ずるい気がした。そのため「残ります」と口火を切り、ほかの選手たちも、それにならったのだ。

嫌われてもいいという覚悟

河西にはオリンピック後に書いた『バレーにかけた青春 キャプテン生活八か年』という著書がある。

それによると河西は、選手たちから怖がられていたことを自覚していた。でも、たとえチーム全員に嫌われようと、強くなるためならかまわないと覚悟を決めた。それでいて選手を代表して、監督に対等にものを言えるキャプテンでもあった。

そんなキャプテンに対して、選手たちは近寄りがたいものを感じつつも、絶対的な信頼を寄せていた。とにかくボールをまわせば、あとはなんとかしてくれる存在だったのだ。

河西はセッターとしてボールを受けて、トスを上げる。その瞬間、敵はボールの行方を読んで、アタッカーの前でブロックしようと動く。そこで河西は裏をかき、別のアタッカーにトスを送る。その結果、ノーブロックの場所で、アタックが見事に決まる。この一連の判断を無意識に行った。

どのアタッカーにトスが行くか、たがいに合図するわけではない。河西は著書の中で、自分のフォームでアタッカーに伝わったと書いている。でも動作でわかるくらいなら、敵にもわかってしまう。ほんの微細な動きだったのか、それとも勘のようなものが働いたのか。それが敵には魔術のように不思議に思えて、魔女と呼んだのだろう。そこまで以心伝心できたのも、とてつもない反復練習の成果だった。

 

オリンピックのわずか3ヶ月前、病床にあった父が他界。駆けつけた娘を、母は涙をこらえて迎えた。この時、河西は、母に泣かれたら気持ちが崩れたかもしれないという。そして葬儀が終わるなり、すぐに自分の意志で合宿に戻った。過酷な練習に集中することで、哀しみを忘れるしかなかった。

東京オリンピックのソ連との決勝戦は、テレビ視聴率66・8%を記録。スポーツ中継としては、いまだ、これを超える数字はないという。まさに日本中が声援を送ったのだ。

河西は絶対に負けないという自信を持っていた。監督への信頼と、徹底した練習に裏づけられた自信だ。その通り、1セット、2セットと先取した。

あまりに楽に得点できて、河西は「変だな」と首を傾げた。すると気が緩み、3セット目で、たちまち追い上げられた。アタックが決まらなくなり、河西のトスにも迷いが生じた。迷いはアタッカーに伝わる。悪循環だった。

流れを変えたのは回転レシーブだった。仲間が徹底的にボールを拾い、河西につなげたのだ。最後は勝利を手にし、全員が嬉し涙にくれた。

 

オリンピックが終わったら、大松が縁談を世話してくれる約束だった。だが河西は自分より背の低い相手は嫌だった。すると時の首相、佐藤栄作から自衛官との見合いを勧められた。あまりに大物の口利きで、もし会って気に入らなかったとしても断れない。不安なまま見合いしたが、双方で気に入り、幸せな結婚に至った。

その後は私設チームを結成して、バレーボールを楽しみ、ママさんバレーの普及に尽力。日本バレーボール協会で女子強化委員会副委員長も務めた。

現代なら大松の指導はパワハラと見なされたかもしれない。当時から「練習が厳しすぎて選手たちが可愛そうだ」という声もあった。今はただ、金メダル獲得の偉業は、美しい記憶の中に残っている。

 

[参考資料]河西昌枝著『バレーにかけた青春 キャプテン生活八か年』、河西昌枝ほか著『思い出の回転レシーブ 大松先生ありがとう』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『梅と水仙』(PHP研究所)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

〈肖像写真提供〉〉©朝日新聞 〈イメージカット〉©Donald Uhrbrock /

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