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ジョゼフィーヌ|時代を生きた女たち#113

離島の農園主の娘がフランス皇后になるというシンデレラ・ストーリーの主人公であり、浮気で浪費家の悪妻とも見なされる。2 人目の夫であるナポレオンが皇帝になったため、子どもができないという理由で離婚された。しかし笑顔を絶やさぬ気さくな人柄で、生涯、ナポレオンからもフランスの兵士たちからも、幸運の女神として愛された。

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パリの歴史的建造物「アンヴァリッド」は、かつて軍病院として建てられた。付属するドーム教会には、ナポレオンの墓が安置されている。©Alexander Spatari

ジョゼフィーヌ●1763~1814年
ナポレオンの悪妻とされつつも、愛され続けたフランス革命期の皇后

メキシコの東に広がるカリブ海。そこにマルティニークという常夏の島が浮かぶ。今もフランス領だが、コロンブスが「世界でもっとも美しい場所」と絶賛した離島だ。

そんな島でジョゼフィーヌは誕生した。父は農園を経営する下級フランス貴族。ジョゼフィーヌは現地の乳母に預けられ、天真爛漫に育った。生涯、誰にも笑顔を向けた人柄は、この楽園で育まれた。そして、よく当たると評判の占い師から「王妃以上の女になる」と保証されたという。

 

16歳でパリに嫁いだ。相手は19歳のアレキサンドル・ド・ボアルネ子爵。ダンスの巧みな美男で、社交界で女性の人気を集めていた。そんな新郎にしてみれば、島から出てきたばかりのあかぬけない小娘など論外だった。

この頃のフランス貴族は、家柄や経済的な理由で結婚はするものの、新婚の熱が冷めれば、夫も妻も恋人をつくることが、かなり大目に見られていた。むしろ結婚後も恋ができる女性の方が魅力的だった。

アレキサンドルがうつつを抜かす相手も人妻ばかり。ジョゼフィーヌには居たたまれなかった。それでも結婚の2年後には長男ウジェーヌが、さらに2年後に長女オルタンスが生まれた。だが夫の気持ちは取り戻せなかった。

 

ジョゼフィーヌが26歳になった夏に、フランス革命が勃発。以来、アレキサンドルは王宮に反旗を翻し、革命側の貴族として名を挙げた。

ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑により、ブルボン王朝は消滅したが、なおも混乱は続いた。革命政府の中で対立が起こり、ちょっとしたことで反革命的と疑われた者が、次々と処刑されたのだ。

アレキサンドルも濡れ衣を着せられて投獄された。愛のない夫婦ではあったが、ウジェーヌとオルタンスの父親であり、ジョゼフィーヌは夫の助命に懸命に奔走。だが、そのために彼女自身も捕まってしまった。

日毎に数十人もが処刑され続け、とうとうアレキサンドルも断頭台に消えた。しかし、わずか4日後に政変が起きて、獄舎は開放された。からくもジョゼフィーヌは処刑を免れたのだ。

 

この恐怖の経験がジョゼフィーヌを変えた。夫の死で経済的な基盤を失い、13歳の長男と11歳の長女を抱えている。そのために、いかにもフランス貴族らしい生き方を選んだのだ。

洗練された物腰を身につけ、多額の借金をして高価なドレスや宝石で身を飾り、有力な男たちに近づく。そうして借金を肩代わりさせると、また別の男へと、刹那的に暮らした。

ナポレオンとの出会い

そんな時にナポレオン・ボナパルトと出会った。6歳下の小柄な軍人で真面目一方。軍服がすり切れても、新調できないほど経済的に苦しかった。当然、ジョゼフィーヌの眼中には入らない。

その後、反革命勢力が盛り返し、武装蜂起を図った。この鎮圧にナポレオンが力を発揮し、一挙に名を上げた。それに伴って、パリ市中に武装解除が命じられ、個人の武器も没収。

ジョゼフィーヌの家からは、亡き夫のサーベルが持ち去られた。だが長男のウジェーヌは、父の形見だから返してほしいと訴え出た。するとナポレオンは少年の勇気に感じ入り、サーベルを返却してくれた。そこでジョゼフィーヌは礼を言いに出向いた。

ナポレオンにとっては高嶺の花が向こうから近づいてきたのだ。まして地中海のコルシカ島出身だけに、同じような離島出身の女性に心安らいだのだろう。すっかり惚れ込んで求婚した。

 

ジョゼフィーヌは考えた。いつまでも若くはないし、借金や危うい恋を、ずっと続けられるはずもない。子どもたちの将来のためにも、父親がいた方がいい。そんなドライな考えから結婚に踏み切った。

婚姻の届け出に際し、妻は4歳下、夫は1歳上に年齢を詐称して、ほぼ同年代とした。ちなみにジョゼフィーヌという名は、ナポレオンが呼び始めたもので、それまではローズといった。

結婚の数日後には、ナポレオンは大軍を率いてイタリア戦線に向かった。そして新妻に一緒に来てほしいと、毎日、熱烈なラブレターを書き送った。

だがジョゼフィーヌは結婚前の態度を引きずっていた。金づかいが荒く、愛人もいたのだ。そのため返事もおざなりで、イタリア行きは延び延び。前の夫から教えられた夫婦のあり方を、今度は自分が実践したのだった。

それでも、なんとかミラノまで赴くと地元の歓迎を受けた。ジョゼフィーヌは誰にも愛想がいいだけでなく、大勢の前での挨拶も心がこもっており、たちまち人気が高まった。

 

一方、ナポレオンは軍事の天才で、ミラノから前線に出ては、イタリアを従え、オーストリアを打ち破った。そしてパリに堂々と凱旋したのだ。ジョゼフィーヌは常勝将軍の妻として、フランス国内でも大歓迎された。

だが、この頃から夫婦の力関係が逆転。夫は、不実で浪費家の妻に見切りをつけ、別の女性に奔った。ナポレオンの親きょうだいはジョゼフィーヌを毛嫌いし、しきりに離婚を勧める。

ここに至ってジョゼフィーヌは、ようやく夫を見直した。男女関係にありがちだが、背中を向けられると愛しさがつのり、別れを拒んだ。

前夫の子であるウジェーヌもオルタンスも、ナポレオンを父として慕っており、別れないでほしいとすがる。そうなるとナポレオンにも未練が生じ、結局は突き放せなかった。

絶大な人気を背景に、ナポレオンはフランス皇帝にまで昇りつめた。ジョゼフィーヌも壮麗な戴冠式を経て、皇后の座についた。

皇帝ともなれば跡継ぎが必要になる。夫妻に子ができないのは夫側に原因があると見なされていた。ジョゼフィーヌには出産の実績があるからだ。だがナポレオンの浮気相手が子をなした。それによって実子への期待が高まり、すでに46歳になっていたジョゼフィーヌは、泣く泣く離婚を承諾。

 

ナポレオンはオーストリア皇帝の姫、マリア・ルイーザと再婚し、男児を授かった。しかし、この結婚は裏目に出た。外国の王家との縁組は、かつてブルボン王朝で盛んだった。ナポレオンは実力で皇帝まで駆け上ったのに、旧体制の権威にこだわった。これが反感を買ったのだ。

さらにナポレオンはロシア遠征で手痛い敗戦を喫した。兵士たちはジョゼフィーヌを幸運の女神と見なし、離婚が武運を曇らせたと考えた。

周辺各国から攻め入られ、パリが陥落すると、ナポレオンは皇帝の座から引きずり降ろされ、地中海の小島に追放された。

一方、マリア・ルイーザは幼いナポレオン2世を連れて、オーストリアに帰国し、二度とパリには戻らなかった。

ジョゼフィーヌはナポレオンの復権に奔走。最初の夫の助命に努めた時は、彼女自身の投獄につながったが、今度は思いがけない病魔が待っていた。夢中で奔走するうちに、冷たい雨に打たれて風邪をこじらせ、肺炎で急逝したのだ。最後までうわ言のように、ナポレオンの名を呼び続けた。

 

その後、ナポレオンは一時、パリに復帰したものの、ふたたびイギリスなど連合国に敗退。南大西洋の孤島に流されて病没した。こちらも最後にジョゼフィーヌの名をつぶやいたという。

結局、ナポレオン3世が帝国を再建。これはジョゼフィーヌの娘オルタンスが、ナポレオンの弟に嫁いで生まれた子だった。今のパリの美しい町並みを創ったのは、このナポレオン3世、つまりジョゼフィーヌの孫だ。

 

[参考資料]安達正勝著『ジョゼフィーヌ 革命が生んだ皇后』、高階秀爾ほか著『歴史をつくる女たち4 華麗なる宮廷の誘惑』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『梅と水仙』(PHP研究所)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

〈肖像写真〉©traveler1116

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