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宮城まり子|時代を生きた女たち#114

歌手であり、女優であり、エッセイストでもあり、自著の装画を手がけるほど絵にも優れ、さらには映画監督まで務めた。それほど多才だったからこそ、ハンディキャップのある子供たちにも、それぞれ才能があると信じ、感性をみがかせて、持てる力を開花させた。すぐには結果を求めず、焦らずに、ゆっくり時間をかけて。それが彼女の教育の基本だった。

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宮城まり子●1927~2020年
歌手や女優として成功し、後年は障害児教育の先駆者となった

宮城まり子は昭和2年、今の東京都大田区内で生まれ、その後、大阪で育った。2歳下の弟、八郎とは、そっくりで、とても仲のいい姉弟だった。

ただ体が丈夫ではなく、よく熱を出しては学校を休んだ。そんな時は両親の書棚にあった小林多喜二の『蟹工船』や、トルストイの『復活』などを読む子供だった。一律なことを強いられる学校は好きではなかったが、成績はよく、歌や絵も得意だった。

10歳の時に父が事業に失敗。それまでは、お手伝いさんがいて、何不自由ない暮らしだったが、小さな家に引っ越しした。美しく優しい母は、それから間もなく肺を病んで亡くなった。

母が恋しくて泣いている弟を見て、まり子は決意した。大人になったら、泣いている子供に優しい先生になろうと。だが経済的な理由で上級の学校には進めず、教師になる夢は諦めざるを得なかった。

小学校を終えると、弟とともに吉本興業に入った。ここで芸事やしきたりを身につけたらしい。戦争中は父が一座を率いて、九州の軍事施設などに慰問にまわり、18歳で終戦を迎えた。

戦後、弟とアメリカのミュージカル映画を観て、夢中になった。弟は作曲家を目指し、ふたりでミュージカルをやろうと約束。まずは東京に出て、まり子が浅草の寄席で歌った。たちまち人気が出て、スカウトされて有楽町の日劇の大舞台へ。レコードも吹き込み、売上は好調だった。

28歳の時に、たまたま作詞家が捨てた原稿用紙を拾い、その詞が気に入った。どうしても歌いたいと頼み込んで、レコーディングしたのが『ガード下の靴みがき』。貧しい靴みがきの少年と花売りの少女の歌だが、大ヒットになった。

 

女優としても人気を得た頃、雑誌の対談で、小説家の吉行淳之介と出会った。その後、日比谷の映画館で偶然再会。地味なフランス映画で、観客はまばらだったが、上映後に館内が明るくなると、端の方のシートで淳之介が立ち上がったのだ。そんな偶然が重なり、読書の趣味も似ているとわかって、まり子は運命の人だと感じた。

まり子の著作のひとつに『淳之介さんのこと』というエッセイ集がある。知り合った時には、まり子は30歳だったが、そこには初恋のようにピュアなときめきが綴られている。

吉行淳之介には気をつけろと、周囲から注意された時には、もう夢中になっていた。彼には家庭があったのだ。ちょうど、ひとり娘が生まれたところで、当然ながら妻は離婚に応じない。

そのまま2年が過ぎ、まり子は別れを決意して海外に旅立った。ニューヨークでブロードウェイのミュージカルを観たり、演技の勉強に励んだり。淳之介からは、たびたびエアメールの手紙が届いたが、返事を書きたい衝動をこらえた。

その後、パリに滞在中、思いもかけなかった知らせが届いた。弟が、友人の車の助手席に乗っていて事故に遭い、急逝したという。まだ29歳で、若手の作曲家として注目を集めていた最中だった。

帰国したまり子を支えたのは淳之介だった。どうしても別れることはできず、以来、淳之介が亡くなるまで、パートナーとして添い遂げた。

 

帰国後ほどなくして、まり子に体の不自由な少女の役がめぐりきた。すでに33歳になっていたが、童顔だったため、子供の役が多かったのだ。

役づくりのために障害者施設を訪ねたところ、教育を受けられない子供たちがいると知り、大きな衝撃を受けた。自分が上級学校に進めなかっただけに、他人事ではなかった。

またある時、舞台のアンコールで、児童合唱団のコーラスから離れて、客席をまわりながら「ドレミの歌」を歌った。すると母親の膝にいた女の子が抱きついてきた。観客の手拍子の中、そのまま手をつないで歩いたものの、とても歩きにくそうだった。足が不自由だったのだ。

「一緒に舞台に行く?」と聞くとうなずく。女の子が懸命に舞台まで昇り、合唱団と一緒に歌う健気な姿は、感動を呼び、盛大な拍手が湧いた。

幕が下りるなり、合唱団の子供たちが駆け寄り、まり子も女の子も、みんなで抱き合って泣いた。母親も涙ながらに「あんな思い切ったことをする子ではないのに、本当に頑張った」と話した。

そのほかにも、ハンディを抱える子供との出会いが何度も重なり、まり子は、また運命的なものを感じたのだ。

高かった無理解の壁

40歳を過ぎた頃、吉行淳之介に相談した。「障害のある子供たちのために学園を作りたい」と。すると「昨日今日、言い出したのなら、やめなさいと言うけれど、ずっと前から思い続けてきたみたいだから」と励ましてもらえた。ただし「途中で辞めると言わないこと。愚痴はこぼさないこと。お金がないと言わないこと」の3つを約束した。

まり子は海外の施設を何カ所も見学し、私財を投じて、静岡県の御前崎市内(旧浜岡町)に、ねむの木学園を開いた。

当初は障害児の暮らしの場として十数人の子供たちでスタート。学校教育の方は、公立学校から教師が派遣されてきた。だが中には、まり子をこころよく思わない教師もいた。女優の道楽程度とみなしていたのかもしれない。

2年目の夏、まり子はプールを使ったセラピーを目指した。浮力を利用すれば、体の不自由な子も動きやすい。だが充分な資金が用意できず、味気ないプールしか作れなかった。そこで暑い最中、プールの内壁に自分で絵を描いた。

すると、ひとりの教師が子供たちの前で「プールに絵なんか描いても嬉しくないよね」と聞えよがしに言ったのだ。子供たちを厳しく叱る声も耳に入る。できないことをあげつらい、自分は駄目な子だと思い込ませてしまう。それでは学園を開いた意味がない。

まり子は、ねむの木学園の中に、私立学校の併設を決意。だが、それは日本で最初の試みであり、まして障害者施設は厚生省、学校は文部省と管轄が分かれていた。膨大な書類を何度も書き、前例のないことを嫌がる役所で、まり子はテーブルをたたいて「前例は、これから作るのです」と訴えた。

いつしか熱意は伝わり、小中学校の開校が認められた。その後、子供たちの成長に応じて高校も併設した。

 

だが全国養護学校長会で、ある校長が言い放った。「高校を増やしても、学力がついていかないのだから、極端な話、おとなになるまでの吹きだめですよ」

まり子は腹が立った。自分自身が多才だったせいか、ひとりひとりの才能を信じた。そして絵やコーラスやダンスなど自己表現に力を入れたのだ。

ただし技術的な指導はせず、たとえば花の香りをかがせ、手でふれさせて感性を育てた。子供たちは言葉や手脚の自由がきかない分、感受性は研ぎ澄まされ、プロの画家かデザイナーのように優れた絵を描く子たちが現れた。

鉛筆が持てない子供には、電動タイプライターの使い方を教え、感じたことを文章にさせた。それを何編も、まり子は自身のエッセイに転載しているが、純粋な文章には心揺さぶられる。

それも各自の進み具合に合わせて、ゆっくり焦らずに見守った。そうして「吹きだめ」ではないことを、実証してみせたのだ。

 

一方で執筆や講演会で全国を駆けまわり、学園の運営費を捻出した。そして淳之介との3つの約束を守り通し、今年3月21日、93歳で世を去った。

※カタログ2020年10月号P23に「まり子は~私財を投じて、静岡県の掛川市内にねむの木学園を開いた。」とありますが、正しくは御前崎市内(旧浜岡町)となります。お詫びして訂正いたします。

[参考資料]宮城まり子著『約束』『まり子の校長日記』『淳之介さんのこと』『時々の初心 ねむの木学園の40年』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28回新田次郎文学賞受賞。『梅と水仙』(PHP研究所)など著書多数。最新刊は『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』(集英社文庫)http://30miles.moo.jp/

〈肖像写真〉毎日新聞社/アフロ

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