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ワダエミ|時代を生きた女たち#131

もしかしたら日本では、誰もが知る超有名人ではないかもしれない。でも、これほど世界的に高い評価を得た日本女性は滅多にいない。黒澤明監督の『乱』でアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞し、海外に羽ばたいた。その感性は京都の美意識の中ではぐくまれ、演出家の和田勉との結婚によって開花した。

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ワダエミ ●1937〜2021年

映画や舞台などで世界的に活躍した衣装デザイナー

夫の和田勉はNHKの辣腕プロデューサーだったが、定年退職後は「笑っていいとも!」やテレビコマーシャルなどに出演。ポヤポヤした髪と、薄い色のサングラスがトレードマークで、駄洒落を連発し、「ガハハ」と笑うキャラクターで人気を博した。

そのイメージとワダエミの華麗な衣装とは、そぐわない印象もあるが、和田勉こそが衣装デザイナーとしての妻の才能を引き出したのだ。

着道楽の家族からの影響

エミの曽祖父、野口茂平は、薬売りで知られた富山の出身。大阪に出て、結核に効くという「肺労散」を販売し、巨万の富を築いた。

大阪の店のほか、京都で公家屋敷を買って、あちこち手を入れながら暮らした。そこは下鴨神社の「糺(ただす)の森」に続く、2000坪もの緑深い敷地だった。

2代目に当たる祖父は、明治の人ながらレコードとカメラが趣味。貿易に手を広げ、自動車や楽器を輸入した。

3代目の父は、幼いころからピアノを習い、建築やインテリアも好んで、屋敷の一角に、音楽スタジオ用の洒落た洋館を建てた。

また漢方薬の輸入も手がけていたために、大阪の店の内装は中国趣味。京都の住まいは和洋折衷で、趣味よくしつらえられていた。

そんな贅沢な環境で、エミは昭和12年に長女として誕生。本名は恵美子と漢字表記だ。

家族全員が着道楽。着心地のいい布地を選び、色柄の染めから刺繍まで、それぞれが好みを伝えて誂えた。まさに京都ならではの文化だ。

エミの洋服も京都の大丸で特注。それも既存のデザインではなく、「ヴォーグ」などの海外ファッション誌をもとに、自分の好みを加味して頼んだ。

幼いころから両親が外出がちで、遊び相手は、もっぱら妹たちだったが、寂しいとは感じなかった。家にあるたくさんの本を読んだり、レコードを聴いたり、空想にひたったりして、ひとりで過ごすのが好きだった。

中学高校は同志社女子に進学。絵を描くのも好きだったので、建築が趣味の父がアトリエを建ててくれた。そこに若手画家を呼んで指導を受けた。

大学は京都市立美術大学に入学。専門は西洋画だったが、大学在学中に演劇に興味を持って、女優を志した。すると両親は反対するどころか、母親がエミを連れて大阪のNHKを訪ね、「娘を女優として使ってくれないか」と頼みに行ったという。

そんな縁で出会ったのが、ドラマの演出家だった和田勉だ。会って半年で結婚し、大阪市内の公団住宅に入居。エミは20歳で、まだ学生だった。

7歳上の勉は読書家で、NHKの購買部で膨大な本を買い込む。その支払いで給料がマイナスになることもあった。しかしエミ自身も本が好きだし、嫁入り道具だった着物を、よく質屋に持ち込んだ。

勉は恥ずかしくて電柱の影に隠れていたが、エミは平然としていたという。極端に裕福に育つと、多少の手元不如意は苦にならないらしい。贅沢な暮らしへの未練もなかった。

それよりも勉の人脈が新鮮で刺激的だったのだ。安部公房、寺山修司、野間宏など、黎明期のテレビ業界には優れた人材が集まっていた。

勉はテレビ番組のかたわら、舞台演出も手がけた。そんなときに妻に衣装制作を依頼。デザインを考え、素材を吟味し、職人に発注して作る仕事だが、それはエミにとって、子どものころから慣れ親しんできたことだった。

彼女が衣装デザイナーとして優れていたのは、センスだけではなかった。しっかりと台本を読み込み、人物像をつかんで、それに合う衣装を考えた。服装は個性の表現と、とらえていたのだ。

その後、勉が東京に転勤になり、夫婦は新宿区内で暮らした。翌年、一人息子となる翼が誕生。

産後ほどなく衣装制作に復帰。すでに夫以外の依頼も受けていたが、収入はボランティア同然というときもあった。勉は「ちゃんとギャラをもらえるような仕事をしなさい」と言ったが、仕事自体には理解があった。

翼は小学校から私立に入学させたが、エミの作るお弁当は、おにぎりかハムか卵のサンドイッチ。息子としては不満はあったが、エミは「息子が私の人生を生きてくれるわけじゃない」と、クールな母親だった。

マルコ・ポーロが転機に

35歳で転機を迎えた。アメリカの超大作映画『マルコ』の衣装担当に抜擢されたのだ。
13世紀にアジアを旅したマルコ・ポーロが主人公で、主な舞台は中国だった。

だが撮影当時、中国では海外映画の撮影は認められず、日本での撮影が決まっていた。日本人俳優が中国人役を務め、ロケも日本で行われたのだ。

エミは映画の経験はなかったが、思い切って登場人物の衣装スケッチを何枚も描き、オーディションに挑んだ。それを見たアメリカ人プロデューサーが気に入ってくれたのだ。

この映画でエミは、すべての登場人物の衣装を手がけ、制作した衣装は約1000着。脇役の衣装とのコントラストで、主人公の印象を際立たせた。

また物語の時代背景も徹底的に調査。それでいて時代考証通りではなく、当時としてはあり得ない鮮やかな色や素材も、ためらいなく使った。

『マルコ』の映画自体は、日本では話題にならなかったが、衣装は好評で自信を深めた。

その後、黒澤明監督が日本版『リア王』を制作すると聞いて、シェークスピアが好きだったエミは「自分の仕事だ」と確信。数百冊もの資料を読んで、アイデアを売り込んだ。

すでに黒澤は巨匠だったが、意外なほど柔軟な態度で、提示されたプランを受け入れてくれた。それが『乱』という大作映画だった。

衣装は1400着に及び、糸の染めや織りから制作することに決まり、エミは40代なかばの3年間を費やした。

欧米の映画界では監督やプロデューサーが圧倒的な力を持ち、そこに承認されれば自由に仕事ができる。

しかし日本映画は階層意識が強く、それを飛び越えて監督と結びつくのは嫌われて、内部から激しい批判を浴びた。制作費が膨れ上がり、経済的な問題も生じた。それでもエミは、こだわりを捨てなかった。

その結果、49歳でアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。50代なかばからは『宋家の三姉妹』や『トゥーランドット』など、海外での仕事が増えていった。日本では、どうしても働きにくかったのだ。

60代なかばからは北京のアトリエを使った。京都の伝統工芸の職人が高齢化し、後継者が続かない時期だった。一方、中国ではまだ人件費が安く、若い世代に教えれば、手が器用で、どんどん吸収する。エミは教えることも好きで、やりがいがあった。

家庭では、夫がNHKを定年退職。彼は片づけが嫌いで、エミのストレスが溜まった。そこで夫の仕事場を借りて距離を置いた。息子は映像の仕事に進み、やはり家を出て独立。

正月や誕生日のほかに、エミが海外から帰国したときなど、折りを見ては家族3人で食事をともにした。それぞれが自分を大切にしつつ、いい関係性が築けたという。

勉は癌を発症し、3年間の闘病生活の末に80歳で他界。その介護には、できるだけ心と時間を割いた。

エミ自身は50代から80過ぎまで、大きな仕事を続けた。遅咲きではあるけれど、これほどまでに世界で活躍できた裏には、人並みではない家族のあり方が必要だったのだ。

また、その活躍ぶりは、普通に努力して到達できる範囲を超えている。日本が世界に誇る京都という町の、桁違いに裕福な家庭でこそ、はぐくまれた人なのだろう。

 

参考資料/ワダエミ著『わたしが仕事について語るなら』、ワダエミ・千葉望共著『ワダエミ 世界で仕事をするということ』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。
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