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石岡瑛子|時代を生きた女たち#134

東京藝術大学の成績は抜群。完璧を目指して努力する天才だった。1970年代には斬新な広告によってパルコのイメージを確立。要所要所で休息を取りながらも、優れた人材をまとめ上げ、クライアントと掛け合いつつ、生涯を通して全力疾走を続けた。

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石岡瑛子 ●1938〜2012年

日本が世界に誇るべき天才肌の努力家アートディレクター

石岡瑛子は亡くなる前年の2011年に、NHKの人気番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」に登場した。冒頭のテロップは「すごい日本人がいた」だった。

瑛子が日本で最も活躍したのは1970年代で、放送の40年前。まして広告の作り手は基本的に黒子であり、放送の時点では、広く名を知られた存在ではなかった。それで「すごい日本人がいた」という表現になったのだが、まさしく「すごい日本人」だった。

生まれ育ったのは、現在の東京都文京区小日向。父の石岡とみ緒はグラフィックデザイナーの草分けで、当時、図案家と呼ばれた。母の光子は、実家がフルーツパーラーを経営しており、九段にある女学校の出身。

おしゃれな家庭だったが、瑛子が物心つくころには、日本は暗い戦争の時代に入っており、8歳で終戦を迎えた。その後はアメリカ文化が流入し、瑛子はハーシーのチョコレートの甘さと、包み紙のデザインに心奪われた。

父ゆずりで絵が上手だった。中学高校は、お茶の水女子大の付属に通い、高校2年の秋に東京藝術大学の学園祭に衝撃を受けて、デザインを志した。

以前から父の仕事は身近だったが、終戦から10年が経ち、海外の影響を受けた新しいグラフィックデザイナーたちが活躍を始めていた。それが新鮮だったのだ。

瑛子は真面目で努力家。美術予備校でデッサンの腕を磨き、浪人生が多い藝大に現役合格した。

入学後の授業はスケッチなど基本的な訓練が主で、もっと先進的な指導を期待していた仲間たちは、授業に背を向けていく。だが瑛子は与えられたものには、きちんと対峙した。この姿勢は生涯にわたって続く。

講義は最前列に着席。その結果、初年度の成績には「良」があったが学年が上がるにつれて、完璧な成績を収めるようになった。

父は自分と同じ仕事を志す娘に「ケーキや靴など、今まで誰も手がけたことがなく、女性に向く分野で、パイオニアになったらどうか」と勧めた。

瑛子は大手化粧品メーカーに就職。広告に力を入れる企業だったが、まだまだ世の中は「女性はお茶くみが当然」という感覚。まして当時の広告はイラスト中心で、描かれるのは、たおやかな美人像。瑛子は「女って本当は違うんだけどなあ」と感じていた。

瑛子が一躍、時代の寵児になったのは、入社6年目で担当した夏のキャンペーンだった。17歳の新人モデルだった前田美波里を起用し、業界初となるハワイロケを敢行。だが帰国後に2000枚ものフィルムを現像したところ、使えるカットがなかった。大金をかけたロケで成果なしではすまない。

瑛子は印刷会社に必死に頼み、空の青さやモデルの日焼けした肌色を、とことん調整してもらった。その結果、白い水着姿のモデルが、淡いベージュ色の砂浜に横たわり、カメラに力強いまなざしを向けるポスターが完成。

これが圧倒的な人気を博し、次々とポスターが持ち去られるという前代未聞の現象が起きた。それまでとは異なる女性像を、時代は待っていたのだ。

ただし、これほどのヒット作を生むと、次のハードルが高まる。翌年、瑛子は休暇を取り、4カ月かけて欧米9カ国をまわった。特にニューヨークには魅了されたが、小柄なために子どもっぽく見られ、現地のデザイン業界には相手にされなかった。

翌年、化粧品会社は嘱託に退き、フリーのアートディレクターとして仕事を始めた。そして30代でパルコと出合う。パルコは池袋店ができたばかりで、渋谷店の開業が決まっていた。

だが渋谷駅から少し離れた坂上で、商業施設として恵まれた場所ではなかった。ましてテナントを集めたファッションビルのため、宣伝すべき具体的な商品がない。宣伝するのは、あくまでもイメージだった。

瑛子のコンセプトは、年月を経ても古くならず、オリジナルで革命的なもの。そのために優れた感覚のカメラマンや衣装デザイナー、コピーライターなどの力を駆使して広告を制作した。

ただし自身が完璧を求める努力家だけに、周囲にも同様の努力を求め、このころから瑛子の「最強&最恐伝説」が生まれた。

一緒に仕事をしていたコピーライターは、何度もダメ出しされて、途方に暮れた。印刷会社では「赤を何%落として」という指示なら慣れているが、「モデルの色気を出して」などと言われても戸惑うばかりだった。

それでも結局、彼らは瑛子についていった。完成したものが素晴らしかったからだ。その達成感で、手探りの苦労は帳消しになった。

モデルが少し縁のよれた麦わら帽子を目深にかぶり、中腰で遠くを見つめている。背景は砂地で、全身が夕日を浴びて朱に染まっている。添えられたコピーは「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」

別のポスターでは、30人ほどのアフリカの女性や子どもたちが民族衣装姿で、いっせいにカメラに向かって歩いてくる。このコピーは「あゝ原点。」

どれも圧倒的なインパクトがあり、1970年代のパルコは、時代を牽引する存在になった。

パルコの広告の後には

ところが1980年代に入ると「ヘタウマ」なイラストが登場し、ユルさが受け始めた。常に全力投球の瑛子の評価が、急落したわけではないが、時代との乖離(かいり)を感じたのだろう。

42歳で、すべての仕事から離れ、1年ほど、ニューヨークで暮らした。英語を身につける必要性も感じて、ニューヨーク大学に在籍。

英語が上達したころ、現地のジャパンハウスで講演し、日本で手がけた広告を紹介した。すると聴講していた美術系出版社から「作品集を出さないか」と持ちかけられた。

アメリカで仕事をするために、名刺代わりになる企画だった。前回の渡米では相手にされなかっただけに、瑛子は快諾。日米両国で出版が決まり、みずから編集作業に没頭した。

書名は『石岡瑛子風姿花伝 EIKO by EIKO』。黒澤明、イサム・ノグチ、三宅一生など、国際的な著名人が寄稿した。出版されると、特にアメリカ版は評判を呼び、高価な豪華本ながらも初版5000部が完売。

だがパルコで世話になった重役は、すべて瑛子ひとりの手柄にされた印象を抱き、激怒したという。カメラマンなども「共同作業なのに」と不満だった。和を尊ぶ日本では、どうしても違和感が伴ったのだろう。

だが瑛子は、この本をきっかけに国際的な地位を確立し、日米合作映画『MISHIMA』の美術監督を務めた。三島由紀夫の生涯に、『金閣寺』など、彼の作品をからめた幻想的な映画だ。

この作品は海外での評価は高かったが、内容の一部に、三島由紀夫の遺族の了解が得られず、日本での公開が見送られた。瑛子は深く落胆し、以来、祖国とは距離を置くようになった。

その後もアメリカ映画の仕事が続き、フランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』で、アカデミー賞衣装デザイン賞を獲得。以来、衣装デザインの依頼が増えて、2008年の北京オリンピックでは、開会式の衣装を担当するなど、晩年まで意欲的に活躍を続けた。

だがプロジェクトが大きくなればなるほど、毎度、緊張感は凄まじかったことだろう。それを乗り越えて疾走を続け、70歳を過ぎて長年のパートナーだった映画プロデューサー、ニコラス・ソウルタナキスと入籍。翌年、愛する人に看取られて生涯を閉じた。

70年代の日本の上昇気流に乗って、世界へ飛翔した人であり、そのダイナミックな生き方は、日本には収まり切らなかったのだろう。

参考資料/河尻亨一著『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(PHP研究所)。
https://note.com/30miles

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