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瀬戸内寂聴|時代を生きた女たち#135

学業もスポーツも愛国心も優等生だった。幸せな結婚と衝撃的な敗戦、許されぬ恋を経て、小説家への道を模索。だがエロ作家とおとしめられ、正当な評価とは長く無縁だった。51歳での突然の出家は、単純な理由ではなく、自分自身も上手く説明できなかった。今回は作品の解説ではなく、あえて激動に突き進んだ女性としての生き方に注目したい。

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瀬戸内寂聴 ●1922〜2021年
 

恋に生き、文学にこだわり、尼僧へと転じた激動の生涯

近年は、もっぱら瀬戸内寂聴として知られ、俗名を知らない世代もいるというが、出家前は本名も筆名も瀬戸内晴美だった。ただし、あれほどの大作家でありながら、どちらの名前でも、芥川賞も直木賞も取っていない。

大正11年に四国の徳島市内で、2人姉妹の次女として誕生。家は仏壇や神棚の製造販売を生業(なりわい)にしていた。職人の父には何人もの内弟子がおり、奉公人たちも同居して、賑やかな暮らしだった。そんな家業の影響で、晴美は小学校入学前から「祝詞(のりと) 」や「般若心経」を、ひと言も間違えずに暗唱できた。

文学少女だった姉の本や、内弟子たちのために定期購読していた雑誌を片端から読破。小学校では文才を誉められて、早くも将来の夢は「小説家」。学業のみならずスポーツでも頭角を現して、運動会のスターだった。

抜群の成績で県立徳島高等女学校に入学。そのころ中国との戦争が始まって、軍国主義教育が広まったが、晴美は愛国心でも模範優等生だった。

卒業後は東京女子大学に進学。ほどなくして日本は太平洋戦争に突入し、緒戦の勝利に友人たちと喝采した。

卒業前に郷里で縁談が持ち上がった。相手は9歳上で、もともと徳島出身。地元の中学で教師をしていたが、外務省の留学生に選ばれて北京に渡り、そのまま中国の古代音楽史の研究を続けていた。

晴美は、職人気質の実家にはない学究的な雰囲気に憧れて、見合いを了承。会ってみると、予想以上に理知的で結婚に至った。

北京での新居は、もとはロシア系のホテルだった瀟洒な赤煉瓦の一室。翌年には長女が誕生。晴美は家事にも育児にも不案内だったが、持ち前の優等生ぶりを発揮して主婦業をこなした。

昭和20年7月初めに、31歳の夫に召集令状が届いて出征。今生の別れのつもりで見送ったのだろう。だが半月たらずで終戦。日本の勝利を信じて疑わなかった晴美には衝撃だった。

夫は、かすり傷1つ受けずに帰ってきたが、以前とは違って見えた。優等生の価値観が崩壊し、夫としての魅力が失せてしまったのかもしれない。

日本に引き揚げて、親子3人で徳島の実家に転がり込んだ。だが母は空襲で亡くなっていた。それも火の迫る防空壕から出て来ようとせず、助けに入った父を「もう嫌になった。おとうさん、逃げて」と突き飛ばしたという。

嫌になったという意味を、晴美は思いやった。おそらく母は空襲によって敗戦を覚悟し、みずから死を選んだのではないかという。それほど母も愛国一途の人だったのだ。

夫は仕事探しに上京。その間に小川文明という来客があった。夫が地元で教師をしていたときの教え子で、北京にも訪ねてきたことがあった。

文学青年の文明は、傷心の晴美を慰めようと、本を携えて頻繁に来訪するようになった。仲間たちとともに同人誌を立ち上げようとも誘った。

すでに晴美の小説家への夢は遠のいており、読書さえ久しぶりだったが、「書きたい」という思いが再燃。不安定な精神状態もあって、4歳下の文明に強く惹かれた。

性的な関係ではなかったが、晴美は精神的不倫に悩み、東京から戻った夫に打ち明けた。正直であることが大事だったのだろう。3人とも生真面目だからこそ、問題は深刻化した。

夫は妻を文明から離すべく、家族3人で上京。しかし引き離されたことで、いよいよ晴美の恋心は高まり、東京と徳島とで密かに手紙をやり取りした。だが夫に見つかって夫婦喧嘩になった。

そんなときに文明が「友人を頼って岡山に移るので3日だけ待つ」と知らせてきた。新天地で、2人の生活に踏み出そうという誘いだった。

ひとめ会いたくて、晴美は列車で岡山に向かった。だが深夜、名古屋まで来たときに、幼い娘への思いが募った。前夜の同じ時間、娘が夫婦喧嘩に怯えて泣き出し、晴美は外に連れ出して、暗い道を歩きまわったのだ。

そうして東京に戻ったものの、数カ月足らずで、とうとう娘を置いて出奔。昔は子どもは嫁ぎ先のもので、父親が親権を持つのは珍しくなかった。

晴美は女子大時代の友人を頼って京都に向かい、小さな出版社に就職し、文明に連絡。しかし文明は晴美が岡山に現れなかったことで、恋に見切りをつけてしまったのか、21歳という若さゆえに、年上女性の覚悟を受け止められなかったのか。説教じみたことを言うばかりで、徳島に帰っていった。

2年後、娘の就学に伴って離婚が成立し、その後、夫は再婚に至った。

一方、晴美は京都の出版社が倒産し、病院に転職。少女雑誌の懸賞に小説を投稿しつつ、切羽詰まって、病身だった父に金の無心の手紙を送った。

父は「愚かな娘のために、もうひと働きしなければ」と病室を抜け出し、怪しげな灸を受けにいった。だが頭頂部に灸を受けるなり、容体が急変。そのまま帰らぬ人になったという。ポケットには娘の手紙が入っており、晴美は自分のせいで父が死んだと悔いた。

葬儀を終えて京都に戻ると、少女雑誌からの受賞の知らせが届いていた。賞金は当時の給料の3倍。28歳で人生のどん底に至ったときに、原稿で食べていく道が開けたのだ。

恋に生きつつ執筆を続けた

翌年上京。童話や少女小説を書きながらも、純文学作家を志し、同人誌に参加した。晴美の作品は、なかなか掲載されなかったが、同人仲間の小田仁二郎と恋仲になった。

小田には家庭があり、晴美が荻窪などに借りた家と、湘南で暮らす妻との間を行き来した。今の感覚では最低な男だが、晴美を作家として開花させたのは、この小田仁二郎だった。

晴美の作品が同人誌に掲載されるようになると、小田の強い勧めで、新潮社の「全国同人雑誌推薦作」に応募。34歳で「同人雑誌賞」を受賞した。文芸誌の『新潮』から「受賞後第一作を」と求められて、『花芯』を書いて掲載された。しかし、これがエロ小説と酷評され、以来、すべての文芸誌から干された。

すると小田が「東京タイムズ」という首都圏紙に新聞小説の仕事を見つけてきた。女性雑誌などにも連載して、晴美は作家としての命脈をつないだ。

38歳で田村俊子賞、40 歳で女流文学賞を受賞。以来、流行作家として活躍した。ただし、どちらも女性作家限定の賞であり、谷崎潤一郎賞を受賞したのは、さらに30年近く後だった。

その間、51歳で、奥州平泉の中尊寺において出家。超人気作家の突然の出家に、大勢の記者やカメラマンが取材に押しかけた。

晴美は出家の理由を問われて、「自分の文学を深めるためで、急に思いついたことではありません」と答えた。しかし納得はさせられず、以来、嫌というほど同じ質問が繰り返された。

ずっと疎遠だった娘とは、すでに20数年ぶりの再会を果たしていたが、改まって電話があり、出家を「私に何か関係がありますか」と聞かれて否定。

NHKの番組では、小説家の井上光晴との不倫関係を清算するためだったと説明した。ただし出家は「長く密かに考えてきたこと」であり、その間に娘への悔いや、母や父の死に対する思いはあっただろうし、ひと言ですませられるほど単純ではなかった。

ただ悔い改めるための出家ではなく、晴れやかな世界への脱皮だったのは疑いない。幼くして「般若心経」を暗唱したころから、無意識のうちに育んできた夢だったのかもしれない。

出家後も旺盛な執筆意欲は衰えず、小説はもとより『寂聴 般若心経』がベストセラーになり、『源氏物語』の読みやすい現代語訳も出版。はてはケータイ小説にまで挑戦した。

宗教家としても活躍し、法話が人気を博した。往生を遂げたのは昨年11月9日。99歳の長寿だった。

参考資料/齋藤愼爾著『寂聴伝 良夜玲瓏』、瀬戸内寂聴著『いずこより』、『人が好き 私の履歴書』など

Profile
植松三十里
うえまつみどり:歴史時代小説家。1954年生まれ、静岡市出身。第27回歴史文学賞、第28 回新田次郎文学賞受賞。『時代を生きた女たち』(新人物文庫・電子書籍版のみ)など著書多数。最新刊は『家康を愛した女たち』(集英社文庫)。
https://note.com/30miles

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